軍事史の使用と乱用(US Army War College Quarterly)
先般、「なぜ戦争を学ぶのか?軍事的即応性の知的次元 (Modern War Institute)」を投稿し、戦争を学ぶことを意義についての議論を紹介したところである。今回は、その中で引用されていたマイケル・ハワードの論稿を紹介する。1961年に寄稿されたもののようであるが、今でも軍事史(戦史)を学ぶにあたっての心構えなどは大きな気付きを与えてくれる。(軍治)
軍事史の使用と乱用
THE USE AND ABUSE OF MILITARY HISTORY
By MICHAEL HOWARD
US Army War College Quarterly
マイケル・ハワード(Michael Howard)は、オックスフォード大学戦争史教授。ウェリントン・カレッジとオックスフォードのクライスト・チャーチで教育を受け、1943年から45年にかけて英国陸軍(コールドストリーム・ガード)でイタリアに従軍。1947年以来、イギリスのさまざまなカレッジや大学で歴史を教え、イギリス軍将校の教育にも深く関わってきた。主な著作に、ダフ・クーパー記念賞を受賞した『普仏戦争』(1961年)、ウォルフソン文学賞歴史部門を受賞した『第二次世界大戦英国正史の大戦略シリーズ第4巻』(1972年)、『大陸へのコミットメント:世界大戦期における英国国防政策のジレンマ』(1973年)、『ヨーロッパ史における戦争』(1976年)などがある。多数のエッセイ、論文、評論の一部は『戦争と平和』(Studies in War and Peace、1970年)に収められている。ハワード教授は、スタンフォード大学のピーター・パレット教授と共同で、クラウゼヴィッツの『戦争論(On War)』を翻訳し、1976年にプリンストン大学出版局から出版した。本稿は、1961年10月18日にハワード教授が英国王立連合軍研究所で行った講義に基づくもので、当初は『英国王立連合軍研究所ジャーナル』107号(1962年2月)、4-8に掲載された。
米陸軍の学校制度で教えられている軍事史という科目が、このところ話題になっている。例えば、ジェフリー・レコード(Jeffrey Record)※1は最近、陸軍士官学校について、「軍事カリキュラムの礎石となる軍事史の研究が衰退している」と嘆いている(「戦争の運命」ハーパーズ誌、1980年4月号、19-23ページ、およびハーパーズ誌、1980年6月号、4-6ページに反論が掲載された。)。同様に、エドワード・N・ルトワック(Edward N. Luttwak)は、「戦争を理解しようとする者にとって唯一可能な『データ・ベース』である軍事史が、士官学校では数あるものの中の一つとして場当たり的に扱われている」と告発している。指揮参謀大学に関して言えば、「そこでも軍事史は軍事教育の核心ではなく、あたかも縁の下の力持ちのように扱われている」(「新たな軍備競争」『コメンタリー』1980年9月号、27-34ページ)。
※1 ジェフリー・レコード(Jeffrey Record)は、米国における国防政策の専門家。米空軍大学教官。ベトナム戦争ではメコンデルタ地区における和平工作顧問として活躍、その後ロックフェラー財団の援助を受け、ブルッキングス研究所で外交政策を学ぶ。外交政策研究所およびハドソン研究所のシニア研究員。アメリカはいかにして日本を追い詰めたか 「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦 草思社文庫 : ジェフリー・レコード」
しかし、米陸軍が軍事史の問題に無関心であったわけではない。訓練とドクトリンを支援する歴史研究を準備するため、1979年にフォート・レベンワースに戦闘研究研究所(Combat Studies Institute)が設立された。同年、米陸軍訓練ドクトリン・コマンドのドン・A・スターリー(Donn A. Starry)米陸軍大将は、米陸軍の学校を通じて、将校や下士官部隊に「歴史マインド」の感覚を身につけさせるための包括的なプログラムを開始した(Message 1064, HQ TRADOC, 171723Z July 1979, subject: Military History)。陸軍軍事史センターが作成した書誌的テキスト『軍事史の研究と利用の手引き』(1979年)は、将校団に広く普及している。現在の議論に貢献するものとして、専門将校による軍事史研究の有用性に関するマイケル・ハワード(Michael Howard)の1961年の古典的な声明を以下に掲載する。
兵士としての経歴を持つ軍事専門家の歴史家にとって、軍事史に「用途」があるという考えは至極当然のものである。もしそうでなかったら、彼らは歴史学を学ぶことはなかっただろう。しかし、アカデミックな生活から軍事研究に入った歴史家は、自分の研究がどのように利用されうるかについて、ある種の内的懐疑を克服しなければならないかもしれない。これは後ほど述べるが、過去一世紀の間に発展してきたアカデミックな歴史学の一般的な本質に関連した理由によるところもある。また、軍事史が軍国主義の手先とみなされがちな学界において、軍事史の主な用途が宣伝や「神話作り(myth-making)」であるかもしれないというある種の恐怖心によるものでもある。この恐れの根拠がまったくないわけではないので、この恐れを一度検証してみたい。
私が「神話作り(myth-making)」という言葉を使うとき、それは、ある種の感情や信念を生み出し、維持するために、注意深く選択し、解釈することによって、過去のイメージを作り出すことを意味する。歴史が書かれるようになって以来、愛国心や宗教的感情を煽ったり、王朝や政治体制への支持を生み出したりするために、歴史家はほとんどこのようなことを求められてきた。彼らは通常、職業上の不誠実さを意識することなくそうしてきたし、その過程で多くの素晴らしい作品を生み出してきた。
中世を記述したチューダー朝の年代記作家たちは、しばしば自分たちの時代の栄光をよりよく際立たせるためにそうした。19世紀ドイツの国粋主義的な歴史家たち、たとえばジーベル(Sybel)※2やトライチュケ(Treitschke)※3、ヴィクトリア朝イングランドの海事史家や国粋主義的な歴史家たち、たとえばJ・R・シーリー(J. R. Seeley)は、愛国心や忠誠心を呼び覚ますという明確な教訓的目的を持って書いた。全体主義体制下では、それ以外の歴史を書くことは困難であり、時には不可能である。
※2 ハインリヒ・フォン・ジーベル:19世紀ドイツを代表する歴史学者。ベルリン大学でランケのもとで学び、プロイセン学派の中心人物の一人として、専門誌『史学雑誌』の刊行などドイツ歴史学の制度化を指導した。
※3 ハインリヒ・フォン・トライチュケ:19世紀ドイツの歴史学者、政治学者、政治家。レオポルト・フォン・ランケの後任としてベルリン大学歴史学教授、プロイセン国史編纂官を歴任
成熟した民主主義国家であっても、非常に慎重な条件のもとでは、この「神話(myth)」、つまり選択的で英雄的な過去の見方は、それなりに利用価値がある。例えば、連隊史家は、意識的にせよ無意識的にせよ、自分の連隊は、特に最近の過去においては、通常、完璧なまでに勇敢で効率的であったという見解を支持しなければならない。連隊史家は、自分の仕事が将来連隊の士気を維持するという実際的な目的を果たすものであることを十分承知しているからである。
純粋主義者(purist)は、連隊史や一般的な軍事史において、いかに功利主義的であろうと高尚であろうと、この種の抑圧や選択を正当化できるいかなる目的も否定するだろう。確かに、真実を改ざんすることから切り離せない道徳的な危険性と同様に、短期的な危険性もあるが、それは見過ごされがちである。初めて戦地に赴く若い兵士は、描かれた戦争と実際の戦争とのギャップを埋めることができないことに気づくかもしれない。自分、仲間、将校、部下がとるべき行動と、実際にとる行動とのギャップを埋めることができないのだ。
実際に遭遇したとき、臆病や泥沼や恐怖に対する備えは危険なほどできていないかもしれないし、汚れや疲労の蓄積に対する備えさえできていないかもしれない。しかし、それにもかかわらず、「神話(myth)」は、たとえそれが真実でないと心の半分でわかっていても、彼を支えることができるし、しばしばそうするのである。だから私はプラトンのように、神話(myth)には社会的に有用な機能があると信じている。私はこれを軍事史の「乱用(abuse)」だとはまったく考えていないが、まったく別のものであり、異なる基準で判断されるべきものだと考えている。それは「子供向けの歴史(nursery history)」※4であり、私はこの言葉を軽蔑的な意味合いで使うことはない。皆さんのほとんどがご存知のとおり、子供たちに人生の現実を適切に教え込むのは非常に熟練した仕事(highly skilled affair)である。そして、戦争という現実は、我々が直面することになる人生の最も不愉快な事実の一つである。
※4 軍事史において、「子供向けの歴史(nursery history)」という用語は、軍事組織のポジティブな側面や理想化された物語に焦点を当てた、連隊や部隊の歴史の一種を指す。この歴史は、否定的な側面や論争、複雑な要素を軽視したり省略したりする傾向がある。これは、軍事生活や奉仕に関する特定の、しばしばロマンチックに美化された見方を促進する歴史の形態と見なすことができる。
複雑で不愉快な現実が何であるかを発見し、記録するのが「歴史家」本来の役割なのである。近代歴史学の父、レオポルド・フォン・ランケ(Leopold von Ranke)※5の言葉を借りれば、「何が本当に起こったのか」を突き止めなければならないのである。そしてそのためには必然的に、「神話(myth)」を批判的に検証し、その愛国的根拠を評価し、捨て去り、「神話(myth)」が語らずに残している事柄を深く探らなければならない。
※5 実証主義に基づき、史料批判による科学的な歴史学を確立した。ランケ以前の歴史研究者を「歴史家」、以降の歴史研究者を「歴史学者」と呼ぶように、ランケの業績は歴史学の画期となった。
これらの調査によって、わが軍が実際には敵よりも勇敢ではなく、同盟国軍よりも有能ではなかったこと、一見華麗に見える戦法が例外的な幸運によるものであったこと、あるいは戦時中の指揮官たちの評判が時に著しく誇張されていたことが明らかになったとしても、それは予想されることでしかない。我々の多くにとって、「神話(myth)」は我々の世界の一部となっており、それを奪われるのは苦痛なのだ。
1588年のアルマダに対するイギリスの大勝利のあとには、輝かしい和平が待っていたのではなく、(16年後に)イギリスがこれまでにしたことのないような不名誉な妥協案が出され、20年間はスペイン帝国の衛星に過ぎなかったと知ったときの、私自身の苦い幻滅を覚えている。その後、大陸の資料からナポレオン戦争について研究するにつれ、1812年、1813年、1814年のクライマックス戦役でイギリスが果たした役割がいかに偶発的なものであったかがわかっても、それほど衝撃ではなくなった。この戦役で最終的にヨーロッパにおけるナポレオンの覇権は打ち砕かれたが、間接的にその打倒に貢献したことは間違いなく大きかった。
このような幻滅は、大人の社会で成長し、そこに属する上で必要な部分であり、西洋の自由主義社会と全体主義社会(共産主義、ファシスト、カトリックの権威主義など)の違いの良い定義は、前者では政府が国民を責任ある大人として扱うのに対し、後者ではそれができないということである。我が国の政府が、第二次世界大戦の公式歴史書を「正当な歴史(histories proper)」と位置づけ、国家神話(national myth)に加担するものではないと決定したことは、我が国の社会が成熟していることの表れと言えるだろう。
正直な歴史家は必然的に、国家神話と相容れないものを発見し、それを暴露しなければならない。しかし、それを許すことは、単に戦争が守るべき価値観に適合させるためだけでなく、将来のために軍事的効率を維持するためにも必要なことなのだ。
ここで、軍事史に実用的な価値があるのか、という問いに戻る。ここでもまたアカデミックな歴史家は疑念を抱かざるを得ない。
第一に、歴史家はすべての歴史的出来事の独自性を意識すべきである。
「歴史は繰り返さない」という格言があるが、「歴史家は互いに繰り返す」のである。プロの歴史家は、類似点を見極めることよりも、むしろ相違点を明らかにすることに関心があり、素人がナポレオンとヒトラー、ヒトラーとフルシチョフ、小ピット(ウィリアム・ピット)とチャーチルの間に安易に類推することに戦々恐々とするのが常である。彼が関心を持つのは、ある社会の中で起こった出来事とそこに生きる人々であり、彼の仕事はその社会の観点からそれらを説明することである。
異なる時代の状況における特定の特徴だけが互いに似ているのであり、ある状況においては有効であったことが、状況がまったく変わってしまったために、次にそのようなことが起こったと思われるときには、まったく通用しなくなる可能性があるからである。歴史家は、時代錯誤的な考えや動機を過去に読み込まないように常に警戒していなければならない。学問的な訓練を受けていない軍事史家が最も道を踏み外しやすいのはこの点である。
ハンス・デルブリュック(Hans Delbruck)は、おそらく近代軍事史家の中で最も偉大な人物であろうが、歴史に目を向ける軍人と軍事問題に目を向ける学者の両方の弱点を抜け目なく指摘した。後者は、「技術的に不可能であることを見分けることができないために、誤った伝統を信奉してしまうという危険のもとで苦闘している」と指摘した。前者は「状況の違いを十分に考慮することなく、現代の実践から過去の実践へと現象を移し替える」。
学者たちが信じている誤った伝承の例として、デルブリュック(Delbruck)自身が否定するまでほぼ疑問の余地なく信じられていた信念を挙げることができる。それは、紀元前481年にクセルクセスがギリシア軍を攻撃した軍隊の兵力は250万であったというものである。これは明らかに兵站的に不可能なことである。歴史家となった兵士たちの時代錯誤的な考え方については、ジョミニ(Jomini)やマハン(Mahan)の長期にわたる研究、またはキャンベリー参謀学校やグリニッジ王立海軍大学校での集中講座、あるいはその両方を経て初めて編み出すことができたであろう思考プロセスを中世や16世紀の戦いにおける指揮官に帰する、非常に有能な兵士たちによる数多くの研究を名指しで引用するのは不公平だろう。
ゲイル(Geyl)教授※6が「過去の時代の一般的な異質性」と呼んだものを理解するという、他の世代の人々の心に入り込むという営みは困難であり、長い訓練と広範な読書を必要とする。しかし、それを習得したと考える歴史家は、異なる時代やそこで起こった出来事を照合したり比較したりすることが有益であるという事実を認めることに過度に消極的になる可能性がある。これは、おそらく、それと同等の誤りである。
※6 オランダ出身の歴史家で、特にベネルクス地域の歴史に関する研究(ベルギーとオランダの歴史的な関係、特に両国の共通点と相違点に焦点を当てた研究)で知られている。
学術的な歴史家にとって、軍事史の有用性に疑問を抱く第二の根拠は、自分が研究しているのは過去に何が起こったかではなく、歴史家が過去に起こったと述べていることであるという意識である。スペンサー・ウィルキンソン※7はオックスフォード大学での就任講演で、軍事史家の第一の仕事は「事実の確立を目的とした証拠の精査である。第二の仕事は…因果関係に基づいて事実を整理しようとすることである」と指摘した。
※7 スペンサー・ウィルキンソン(1853~1937)はイギリスでジャーナリストとして活躍し、1909年にオックスフォード大学で軍事史教授に就任した人物。普仏戦争(1870~1871)でプロイセンがフランスに勝利を収めた要因の一つとして指揮官を補佐する参謀が果たす役割に着目し、『軍隊の頭脳(The Brain of an Army)』(初版1890;改定版1895)では参謀本部の効率性を詳細に検討している。
しかし、そううまくはいかない。関連しうる「事実(facts)」の数は無限である。(ワーテルローでのナポレオンの行動を説明するナポレオンの病状について、我々は絶えず新しい証拠を耳にしているのではないだろうか)。そして歴史家の心は、いくら偏見や先入観を取り除こうとしても白紙ではない。ある種の先入観から出発しなければならないし、そのすべてを意識しているわけでもない。彼は特定の質問に答えることにしか興味がない。目の前のデータに自分の秩序を押し付ける。ゲイル(Geyl)の言葉をもう一度引用すると、「彼は素材を選び、整理し、解釈することによってそれを使わなければならない。そうすることで、彼は主観的な要素を持ち込むことになる。…事実の背後、歴史の女神の背後には、歴史家がいるのだ」
このような選択の必要性は、軍事史家の場合、特に作戦を扱う場合に顕著である。証拠は混乱しており、たいていは矛盾している。目撃者は、自身の体験について信頼できる証言をできるような心理状態にはない。忠誠心と思慮深さの結果、信用に値しない証拠を抑圧することになるかもしれない、特に最終的にすべてがうまくいった場合にはなおさらである。
軍事史家は、他の誰よりも、混沌から秩序を作り出さなければならない。将軍たちが戦場に自分の意志を押しつけ、整然とした小さなブロックや矢印が合理的かつ秩序正しく動き、戦争の原則が綿密に説明されているような、整然とした戦いの記録は、混沌とした真実を冒涜するような茶番である。混沌の中から秩序を選別する試みがなされなければならない。それが歴史家というものだ。しかし、懐疑的な学者に言わせれば、この整然とした説明を、実際に起こったことの近似値としてさえ受け止めず、ましてや将来に向けたいかなる結論の根拠にもしないほうがいいということになる。
これらはすべて、軍事史を「利用(using)」することに慎重であるべき根拠となる。これらは、ある種の士官学校出身者の整然とした独断的な一般論が、あまりにも長く続いている軍事史のとんでもない乱用であることを指摘する良い根拠となる。しかし、軍事史が役に立たないという根拠にはならない。このような学問的な注意点をすべて踏まえてもなお、戦争は人間の行動の明確かつ反復的な一形態である。政治や行政や経済活動が継続的で絶えず発展する過程であるのとは異なり、戦争は断続的で、明確に定義され、成功か失敗かの明確な基準がある。
1761年当時と比べて、現在のイギリスがよりよく統治されているとか、経済がより繁栄しているとか、独断的に述べることはできない。ある歴史的出来事(宗教改革、栄光革命、大改革法)が勝利であったか、それとも災いであったかについては、意見が分かれるところである。平和の歴史家は変化を記録し、分析することしかできない。しかし、軍事史家は何が勝利で何が敗北なのか、何が成功で何が失敗なのかを知っている。このように活動が絶え間なく繰り返され、その成功を端的な基準で評価できるようになれば、それについて判断を下し、永続的な価値を持つ結論を導き出すことができると仮定しても、楽観的すぎるとは思われない。
しかし、アカデミックな歴史家は、軍事史に利用価値があるという見解に対する批判者の一人にすぎない。自分の職業の技術的な複雑さを自覚し、ナポレオンやストーンウォール・ジャクソン(Stonewall Jackson)※8の経験が戦車やミサイルや機関銃の時代に何の関連性も持ち得ないという考えには、当然ながら焦りを覚える。彼の議論に対処するには、私ははるかに不向きだ。しかし、それでも有益なことは言える。
※8 トーマス・ジョナサン・ジャクソン(Thomas Jonathan Jackson)のことで、南北戦争時代のアメリカ連合国(南部連合)の軍人。アメリカ合衆国の歴史を代表する勇将の1人。その戦いぶりからストーンウォール・ジャクソン(Stonewall Jackson)と渾名された。
プロの兵士、水兵、航空兵が指揮官としての装備を整える上で、戦わなければならない2つの大きな困難がある。第一に、彼の職業は、一生に一度あるかないかという、ほとんど特殊なものである。まるで、外科医が一度きりの実際の手術のためにダミーを使って生涯練習をしなければならないようなものであり、法廷弁護士はキャリアの終盤に一度か二度法廷に立つだけであり、プロの水泳選手は国運がかかったオリンピック選手権のために乾いた陸上で生涯練習をしなければならないようなものである。
第二に、軍隊の運営という複雑な問題は、上級将校の頭脳と技能を完全に占領してしまうため、何のために軍隊を運営しているのかを忘れてしまいがちである。
それなりの大きさの町ほどの規模の組織の管理、規律、維持、補給で遭遇する困難は、上級将校の本業である戦争遂行(conduct of war)に関する思考を排除するのに十分なほど、上級将校を占領する。どのような戦争でも、開戦当初は上級指揮官の失敗の割合が高いのは驚くべきことではない。
このような不運な男たちは、戦争が本当はどのようなものなのか、事前にしっかりと考えることを怠ったために、現実に適応するのに時間がかかりすぎてしまったか、あるいは、純粋な行政の生涯によって心が形作られてしまったために、現実的な目的のために兵士であることをやめてしまったかのどちらかだろう。この点で、船乗りが享受している優位性は非常に顕著なものである。戦艦であろうとディンギー(一般的に小型のヨットやボート)であろうと、海上で船舶を指揮する者が完全に平和であることはないのだから。
もし職業軍人(professional soldier)が自分の職業を学べるような戦争が現在存在しないのであれば、過去の戦争を研究せざるを得ないだろう。なぜなら、歴史的な相違をすべて考慮してもなお、戦争は他のどの人間の営みよりも似ているからである。クラウゼヴィッツが主張したように、戦争はすべて、危険と恐怖と混乱の中で行われる。すべての戦争で、大勢の人間が暴力によって互いの意思を押し付けようとしている。
もちろん、社会的あるいは技術的な変化によって、ある戦争と別の戦争との間にもたらされる違いは計り知れないものであり、こうした変化を十分に考慮しない無分別な軍事史研究は、まったく研究しないよりも危険なものになりかねない。政治家と同様、軍人も、過去の過ちを知らないがゆえに繰り返す危険と、状況の変化により過去の理論が陳腐化したにもかかわらず、過去の歴史から推論された理論に縛られ続ける危険との間で舵取りをしなければならない。
一方では、1941年と1942年のロンメル(Rommel)に対する作戦で西沙漠のイギリス軍指揮官が犯した過ちと、1796年と1797年にイタリアでボナパルトに対するオーストリア軍指揮官が犯した過ちとの間に、気が滅入るほど近い類似点を見ることができる。経験豊富で信頼できる将軍が、勇敢で装備の整った部隊を指揮しながらも、反応が鈍く、安全確保に執着し、危険を恐れて部隊を分散させたのだ。
一方、1914年と1939年のフランス軍参謀本部は、「前回の教訓(lessons of the last time)」を熱心に研究し、その結果、戦略的・戦術的にひどい失態を犯している。1914年には、1870年には勝利をもたらしたかもしれないが、今では虐殺をもたらすような攻撃的獰猛さで作戦を実施し、1939年には、第一次世界大戦末期には効果的であったが、今ではまったく時代遅れとなっている、ゆっくりと、徹底的に、1ヤード1ヤード攻める準備をしている。歴史の教訓は決して明確ではない。クリオはデルフォイの神託のようなものだ※9。何を言おうとしていたのかを理解できるのは、振り返ってからであり、たいていは遅すぎる。
※9 「クリオ」は、一般的には歴史を司る女神であるギリシア神話のミューズの一人を指し、一方、デルフォイの神託は、古代ギリシアのデルフォイにあるアポロン神殿で巫女を通じて伝えられる神のお告げを指す。ここでは、過去の出来事を記録することが、まるで未来を予言するような重要な意味を持つ場合、「クリオはデルフォイの神託のようなもの」という表現が使われていると思われる。
従って、職業上の指針として軍事史を研究し、その落とし穴を避けたいと願う将校は、研究上の3つの一般規則を心に留めておかなければならない。
まず、幅広く(in width)研究しなければならない。長い歴史の中で、戦争がどのように発展してきたかを観察する必要がある。目で見て初めて、何が変化したか、何が変化していないかを推測できる。そして、歴代の偉大な指揮官たち(great captains)が用いた戦術の類似性から学ぶのと同じくらい、軍事史における大きな「不連続性(discontinuities)」からも多くのことを学ぶことができるのだ。1806年、18世紀最高の指揮官フリードリヒ大王(Frederick the Great)の伝統にどっぷり浸かったプロイセン軍が、それにもかかわらずいかに壊滅したか、また1870年、ナポレオン型に育てられたフランス軍に同じことがいかに起こったかを観察してほしい。
1914年から1918年の戦いの状況において、ナポレオンやモルトケの戦略を注意深く研究し、それを両側で適用しようとしたことが、まったく無意味だったかどうか、また、マハン(Mahan)が18世紀の海戦研究から得た教訓が、我が国の海軍本部(Admiralty)を長期間主力艦隊の理論に固執させ、潜水艦と航空母艦の時代に我が国が二度も敗北の瀬戸際に立たされることにつながったかどうかを検討してみる。戦争の原則に関する知識は、変化に対する感覚によって和らげられ、幅広い読書のみが与えることのできる心の柔軟性で応用されなければならない。
次に、彼は深く研究しなければならない。一つの戦役を取り上げ、公式の歴史だけでなく、回顧録、手紙、日記、さらには想像文学に至るまで、整然とした輪郭が消え去り、実体験の混乱と恐怖(confusion and horror of the real experience)を垣間見ることができるまで、徹底的に探究しなければならない。歴史家によって押しつけられた秩序の裏をかき、綿密な調査によって混沌の遍在を再現し、技能や計画策定、勇気だけでなく、全くの幸運が果たした役割を明らかにしなければならない。こうして初めて、もし幸運にも直接体験したことがないとしても、戦争とは本当はどんなものなのか、「本当は何が起こったのか(what really happened)」を発見することができるのである。
そして最後に、彼は文脈の中で研究しなければならない。
戦役や会戦は、チェスやサッカーの試合のように、厳密に定義されたルールに従って環境から完全に切り離されて行われるものではない。戦争は戦術的な演習ではない。マルクス主義の軍事アナリストがまったく正しく主張しているように、戦争は社会の紛争であり、戦争と闘う社会の本質を理解して初めて、戦争を完全に理解することができるのである。勝利と敗北の根源は、しばしば戦場から遠く離れた政治的、社会的、経済的要因に求めなければならない。
1806年のプロイセンと1870年のフランスの崩壊を説明するには、軍事史だけでなく政治史や社会史にも深く目を向けなければならない。また、第一次世界大戦の結果を完全に理解するためには、なぜ中央列強が西側連合国よりも持続力が弱く、ドイツが最も大きな勝利を収めてから数カ月で崩壊したのか、その社会的・政治的理由を検討することなしにはありえない。
軍事作戦の広範な背景についての知識がなければ、軍事作戦の本質や、失敗や成功の理由について、まったく誤った結論に達する可能性が高い。世界の大国間の争いにおける軍事的要素が、双方が利用できる兵器の破壊力に対する相互の恐怖によって抑制されている今日、このような政治的・経済的要素は、以前にはなかったような重要性を持っている。しかし、過去の最も形式的で限定的な紛争でさえ、それがまったくなかったわけではない。
このように、幅広く(in width)、深く(in depth)、文脈(in context)を追究することで、軍事史の研究は、民間人が戦争の本質と社会形成におけるその役割を理解できるようにするだけでなく、将校の職業における能力を直接的に向上させるはずである。しかし、忘れてはならないのは、軍事史であれ、市民史であれ、歴史の真の用途とは、かつてヤーコプ・ブルクハルト(Jacob Burckhardt)※10が言ったように、人を次の時代のために賢くすることではなく、永遠に賢くすることであるということである。
※10 ヤーコプ・ブルクハルト(Jakob Burckhardt)は、19世紀のスイスの歴史家で、特にルネサンス文化の研究で知られている。彼の歴史観は、文化史や文明史という視点を重視し、政治的な出来事だけでなく、社会全体の文化的な側面を考察することに重点を置いていた。また、歴史を単なる過去の出来事の羅列としてではなく、現在を理解するための重要な手がかりとして捉え、その役割を重視した。