米海兵隊のドクトリンを読む② MDCP 1 Warfighting その2

第1章 戦争の本質

第3章 戦争のための準備

第4章 戦争の遂行

第2章 戦争の理論:Chapter 2 The Theory of War

政治的な目標が最終目標である、戦争はそれに到達する手段である、そして、戦争を政治の目的から独立して考えることができない [1]

—カール・フォン・クラウゼヴィッツ

不敗は防御にあり、勝利の可能性は攻撃にある。自分の強さが不十分なとき、人は防御する。それが豊富なとき、彼は攻撃する [2]

-孫子

会戦(battle)は、殺戮と機動(manoeuver)が制する。より偉大な将軍ほど、機動(manoeuver)を用い、殺戮を求めはしない [3]

-ウィンストン・チャーチル

戦争の本質(nature of war)の統一した見解に至ったので、我々は戦争の理論の開発を始める。我々の戦争の理論は、戦争の準備から戦争を行うに当たっての基盤である。

政策行為としての戦争:WAR AS AN ACT OF POLICY

戦争は、政策(policy)と政治(politics)両方を軍事力の追加によって拡張したものである[4]。政策(policy)と政治(politics)は関連があるが、同義でない、そして、両方の文脈で戦争を理解することは重要である。政治(politics)は動的相互作用(協力で競争的)を通して力の分配に言及し、一方で政策(policy)が政治プロセス内で確立される意識的な目標に言及する。戦争におけるどんな集団にとっての動機である政策目的(the policy aims)は、その遂行の主要な決定要素でもなければならない。我々の理論について理解する唯一重要な思考は、戦争が政策に服しなければならないということである。

戦争の政策目的(the policy aims)が侵略に対する抵抗から敵政府の無条件降伏へ変われば、暴力の適用もそれらの狙いに従って変わらなければならない。もちろん、我々は我々の政策目標に合わせるように選ばれる手段にも対応しなければならない。この意味は我々の能力(our capability)外のところに到達目標を確立してはならないということである。多くの政治問題が軍の手段によって解決することができないと認めることは重要である。いくつかはそうできるが、しかし、稀であると予想できる。軍が展開してしまうと、戦争は軍独自の行動をとる傾向がある。我々は、戦争が生命のない装置でなく生きた戦力であることから、政治の状況を変化させる予想外の結果を招くことを認めなければならない。

戦争を語ることは政治の延長である、そして、政策は戦争が厳密に政治的な現象(a political phenomenon)であると言えないことである。それは、社会的で、文化的で、精神的で、他の要素を含む。これらは、政治問題を解決することに対する戦争の有用性と同様に戦争の遂行の上の強い影響を及ぼすこともできる。

戦争の政策動機が極端な場合、敵政府の破壊というような、破壊という戦争における軍が持つ本来の傾向は政治的な狙いと合致することになる。そうなると戦争の遂行において軍隊はほとんど政治的な制約を受けないことになる。他方、政策動機をより制限すれば、破壊への軍の傾向がより政策動機との不一致になり、そして、政治的な考慮すべき問題として、より軍事力の適用を制限するようになる[5]。指揮官は、軍事行動が政策に役立たなければ、軍事行動に対する政治規制が全く正しいと認めなければならない。同時に、軍のリーダーには、軍事行動に課される限界がいつその任せられた任務を達成する軍隊の実力(ability)を危険に陥れるかについて、政治的な指導部に忠告する義務がある。

我々の意志(will)を敵に強要するために軍事力を使う二つのやり方がある。第一は、物理的に相手の軍事能力(military capability)を無効にすることによって我々に敵を抵抗することはできなくすることである。狙いは永久又は一時的な敵軍事力の排除である。これは殲滅戦略(strategy of annihilationと歴史的に呼ばれ、しかし、それが全ての軍事力の物理的な消滅を必ずしも必要とするというわけではない。その代わりに、それは生き残る軍事的脅威としての敵を無能力(incapacitation)にする必要があり、無能力の戦略strategy of incapacitationと言うこともできる[6]。我々が無制限の政治目標(例えば敵の指導部の打倒)を望むとき、我々はこのような武力行使をする。どんな手段でも残存し敵が抵抗し続けると思っているならば、我々はより限定された政治目標(political objectives)の追求においてこの戦略も使用する。

第二のアプローチは、我々の条件を受け入れることが抵抗し続けるより痛みを伴わないと敵に信じさせることである。これは疲弊の戦略(strategy of erosionである。そして、敵のリーダーシップの意志(will)を衰退させるために軍事力を使う[7]。そのような戦略では、我々は敵が代償を払うのをいとわないより高い抵抗のコストを増やすために軍事力を使う。我々は、我々が敵の指導部が最後に、受け入れる気があると信じている限定された政治的到達目標(political goals)の追求に関して、このように武力行使をする。

戦争での手段:MEANS IN WAR

最高の次元(the highest level)においては、戦争は政治的集団が他に対して与えることができる力の全ての要素の使用を必要とする。これらは、たとえば、経済的、外交的、軍事的、心理的な戦力を含む。我々の主要な関心は、軍事力の使用である。それでも、我々が軍事力の使用に重点を置く間、我々は他の国力の要素から分離してそれを考えてはならない。軍事力の使用は、協議された休戦の施行への決定の示威行為としての戦力の単なる配備から、高性能な兵器を使った一般的な戦い(warfare)まであらゆる形態をとる。

紛争のスペクトラム:THE SPECTRUM OF CONFLICT

紛争においては、広範囲にわたって紛争に関係する暴力行為の重大さの程度を反映した領域(スペクトラム)を構成することができる。領域(スペクトラム)の一方に、軍事力の適用を通常抑制し選択的である「戦争以外の軍事作戦(MOOTW)」と称されるそれらの行動がある。戦争以外の軍事作戦(MOOTW)は戦争を阻止するために軍事能力(military capability)の幅広い範囲の使用を含んで、紛争を解決して、平和を進めて、行政当局を支援する。領域(スペクトラム)の反対側に、全面戦争(general war)(主要国の間の世界的な紛争のような大規模な、立証された戦闘作戦)はある。領域(スペクトラム)のどこに位置するかは、それぞれ特定の紛争におけるいくつかの要素に依存する。それらは、政策目標、利用できる軍の手段、国家の意志(national will)と戦場における戦闘部隊(fighting forces)または戦闘力(combat power)の密度による。一般には、密度がより大きければ、紛争はより激しくなる。各々の紛争は、一様に激しくない。その結果、我々は戦争以外の軍事行動、比較的静かなセクター、主要な地域紛争の局面または全面戦争(general war)の中で比較的緊張した活動に立ち会う。

戦争以外の軍事作戦(MOOTW)と小さな戦争は、主要な地域紛争または全面戦争(general war)においてもありえる。多くの政治的集団は、単に領域(スペクトラム)の緊張の高い片方のエンドで戦争を行うために、軍の手段を所持するわけではない。技術的に、または、数値的に優れた敵と戦う多くの人々は、その優勢した敵の完全利用を正当化しない方法で戦うほうを選ぶ。実際の残存者が危なくなっていない限り、政治的集団は一般に全面戦争(general war)と関係するリスクを受け入れる気がない。しかし、紛争の激烈さは、時間とともに変化する。元の手段が望ましい結果を達成しないならば、交戦者は暴力のレベルをエスカレートさせる。同様に、戦争は実際に時間とともに段階的に縮小する。たとえば、激しい暴力の最初の興奮の後、交戦者は激烈さの最初のレベルを支えることができないため、より小さいレベル(a lesser level)で戦い続ける。

米海兵隊は、国家の即応準備部隊として、紛争の全ての全形態に渡ってあらゆる激烈さで状況に対処するために、融通性と柔軟性を持たなければならない。これは、それが見えるより大きなチャレンジである。戦争以外の軍事作戦(MOOTW)と小さな戦争は、単に全面戦争(general war)のより小さい形態でない。大きな従来の戦力と戦うことができる現代の軍事力では、軽装備化したゲリラ戦力との「小さな」戦いに対して準備不足であることに気づかされる。

戦争の次元:LEVELS OF WAR

戦争の活動は、階層を作るいくつかの相互関係のある次元で起こる。これらの次元は戦略的、作戦的、そして戦術的である。(図1参照)

最高の次元は、戦略的次元strategic levelである[8]。戦略的次元の活動は、直接政策目標に焦点を定める。戦略は、戦争と同様に平和にも適用する。我々は、政策目標を達成するために全ての国力の要素を調整し、焦点を定める国家戦略(national strategy[9]、政策目標を確保する軍事力の適用である軍事戦略(military strategy[10]を区別する。軍事戦略は、このように国家戦略に従属する。軍事戦略は、戦争に勝利する術と平和を確実なものにする考えであることができる。戦略は、到達目標を確立して、戦力を割り当てて、資産を提供して、戦場での実力行使に関して条件を課すことが必要である。政治的および政策目標に由来する戦略は、全ての作戦の唯一の権威のある基礎であることが明確に理解されなければならない。

最も低い次元は、戦術的次元である[11]。戦術は戦闘または他の軍事作戦で特定の任務を達成するためのコンセプトや方法に言及する。戦争では、戦術は特定の時間と場所において戦闘で敵戦力を破るための戦闘力の適用に重点を置く。戦闘外状況では、戦術は我々が他の任務を果たすスキームと方法を含む。そして、例えば命令を執行して、国連平和維持活動において治安を維持する。我々は、通常、戦術について戦闘(combat)に関することと、そして、戦術が交戦(engagement)と会戦(battle)に勝つ術と学(art and science)としての考えであることができるこの文脈として考える。戦術は、火力(firepower)と機動(maneuver)の使用、異なる武器の一体化、敵を討ち破るための直接利用するものを含む。戦争の戦術的次元の中で含まれるものは、戦闘戦務支援機能(例えば再供給またはメンテナンス)の性能(performance)である。戦術的な次元は戦闘力の技術的適用も含む。そして、それはそれらの「技術」と戦術的な活動の範囲内で特定のタスクを達成することの「手続き」から成る。これらは、射撃要求、火力の技術、武器と装備の作戦と戦術的な移動工法を含む。戦術と技術とのある種の共通部分がある。我々は判断と創造力を必要とする「戦術」と一般に反復的なルーチンを含む「技術と手順」が区別を示すポイントである。

戦争の作戦的次元は、戦略的次元と戦術的次元を結ぶものである[12]。戦略的目標を達成することは、戦術的な結果を使用することである。作戦的次元は、会戦において何時、何処で、どのような状態で敵と交戦するか、そして、そして、より高い目的(aims)のために会戦に何時、何処でどんな状況を拒否するべきかについて決めることを含む。この次元の活動は、戦術的な次元の活動より幅広い時間と空間の次元を意味する。戦略は戦争に勝つための取引であり、戦術は会戦と交戦における勝利のためであり、戦争の作戦的次元は戦役(campaign)の勝利に関わる術と学(art and science)である。それの手段は戦術的な結果であって、そして、それの終結は、確立した戦略的目標である。

戦争の次元の区別が、実際にはまず明らかに詳細に描写されるというわけではない。それらは、ある程度の範囲と規模の問題だけである。通常、単一指揮官には複数の次元において責任があって、重複部分が若干ある。図1においては、共通部分はわずかである。これは、おそらく大きな隊形と複数の戦域を含んでいる大規模な、通常紛争の場合である。そのような場合、かなり異なった戦略的で、作戦的で、戦術的な領域がある、そして、大部分の指揮官は彼らの活動を一つの次元か他に重点を置くことがわかる。しかし、その他の場合、図2で示すように、かなりの共通部分があるように、戦争の次元は圧縮する。特に核戦争、あるいは、戦争以外の軍事行動においては、単一の指揮官は、同時に二つまたは三つの次元において行動する。核戦争では、戦争の方向についての戦略的意思決定と武器の使用についての戦術的決定は、基本的に全く同じになる。戦争以外の軍事行動では、小さな部隊リーダーでさえ、たとえば、「戦術的な」活動には直接的な「戦略的」含みがあることが明らかになる。

主導性と反応行動:INITIATIVE AND RESPONSE

戦争の全ての活動は、次元に関係なく、主導性を握るか、敵に応じて反応することに基づく。主導性を握ることによって、我々は紛争の条件を押しつけて、我々と対する敵に我々の条件を強いる。敵の主導性より先に得るためであっても、主導性で我々が多少の肯定的な狙いを追い続けることができる。我々の意志(our will)を敵に強要しようと努めることが、主導性である。主導性は明確に好ましい行動形態である、主導性だけを通して、我々は最後に敵に対して我々の意志(our will)を強要することができる。少なくとも、第一に他に強要しようとする要求のない主導性では、紛争にはならない。第二に、抵抗しようとする要求がなければ、これもまた紛争にはならない。我々が主導性を握れず、敵が行動すれば、我々は敵の企てへの対応を強要される。反応は、一般に、消極的な目的(aims)であり、敵の意図を打ち消す阻止や反撃である。ボクシングのカウンターパンチの様に、反応はそれの目標としてしばしば相手から主導性を奪う。

戦争というものは、主導性と反応の間の連続した相互作用の産物である。我々は、両方の交戦者が同時に主導性を握ろうとするたとえば遭遇戦の場合のような紛争を想像する。最初の衝突の後、一方の意志(will)が優越を獲得し、そして、他方は少なくとも他方から主導性を奪い取るまで、反応することを強要される。戦争の活動は、多かれ少なかれ主導性を奪い、維持するための、たえざる事態である。

この議論は、一対の関連したコンセプト、「攻撃と防御」につながる。攻撃は、打撃力に関与する。我々は、通常攻撃を主導性と結びつけて考える。主導性を奪って、維持する最も明らかな方法は、最初にたたいて、攻撃し続けることである。防御は、他方、抵抗力(身を守って、身を守る実力(ability))に関与する。防御は、一般に、敵の意志(enemy’s will)に抵抗する消極的な狙い(aims)を持つ。

防御は戦い(warfare)のより効果的な形態である傾向があり、それはエネルギーをより少なくてすむ傾向があることを意味し、防御が本質的に戦い(warfare)のより強い形態であるということと、同じことでない。攻撃と防御の相対的な利と不利は、状況に依存している。我々は一般的に防御を、敵を待ってたたくと考えるので、我々はしばしば防御を主導性よりむしろ反応と結びつけて考える。これが、必ずしも真実であるというわけではない。我々が、弱さだけから防御をとると必ずしも決め込むというわけではない。たとえば、敵が我々の防御の強点に攻撃することを強要されるならば、防御は主導性を得る。そのような条件下において我々は敵を破壊するという肯定的な目的(aims)を持つ。同様に、敵が罠にはまれば、待伏せにおいて待っている防御者には主導性がある。防御は、敵を脅かすことのもう一つの方法である。

対立する形式としての攻撃と防御は両立しないわけではない。実際、それらが別々に存在することができない。たとえば、防御は単に消極的抵抗であることができない。効果的防御は攻撃的な性格を持たなければならない。そして、敵の最も大きい脆弱性の瞬間に一撃を加える。クラウゼヴィッツが書いたように、防御は「単純な盾でなく、きちんと導かれた打撃から成り立つ盾である [13]」 防御の本当に決定的な要素は、反撃である。したがって、攻撃は防御のコンセプトの肝要な構成要素である。

同様に、防御は攻撃の必須の構成要素である。攻撃は、無期限にそれ自体を支えることができない。若干の時間と場所で、それは補給するために攻撃を止めることが必要になり、防御に自動的に引き継ぐ。さらにまた、しばしば攻撃のために戦力に集中する必要条件は、どこか他の所で防御を行うことを必要とする。したがって、必要に迫られて、我々は攻撃の我々のコンセプトの一部として、防御を考慮すべき問題として含めなければならない。

これはコンセプトの到達すべき点であって、それなしで、我々が攻撃と防御の関係を理解することは不完全である[14]。攻撃が無期限にそれ自体を支えることができないだけでなく、時間がたてば攻撃力が一般により弱くなる。ある種の精神的な要素(例えば士気または大胆さ)は攻撃の成功で増加するが、これらは頻繁に、抵抗にかかわらず前進を継続するときに費やされる物理的な損失を補うことができない。我々は命、燃料、弾薬と物理的で時々精神的な強みをコストとして前進する、そして、攻撃は時間が経つにつれより弱くなる。敵の抵抗は、もちろん、強みを浪費させる主要な要素である。最終的には、我々は攻撃をもはや継続することができなくて、防御に立ち返らなければならない最高点に到達する。それは、まさにこの点で、攻撃の防御的な要素が、防御の攻撃的な要素(逆襲)に最も弱いということである。

我々は、攻撃と防御との間に明白な区分が存在しないと結論づける。我々の戦争の理論は、人為的にものを強要しようとしてはならない。攻撃と防御は互いに同時に必要な構成要素として存在する、そして、遷移は一方から他方へと流動的で連続的である。

主導性と反応(攻撃と防御)のこれらの関係が、戦争のいろいろな次元で同時に存在する。我々は、より大きな反応の一部として、たとえば、限られた逆襲において局地的に主導性を奪う。同様に、我々は攻撃的な戦役(campaign)の一部として戦術的な防御を使用する。そして、攻撃的な作戦的目的(an operational offensive aim)を続行している間、戦術的に防御の優位性を利用する。

戦い(warfare)のスタイル:STYLES OF WARFARE

戦い(warfare)のスタイルは、消耗(attrition)と機動(maneuver)の領域(スペクトラム)の中のそれらの位置によって説明することができる[15]。消耗による戦い(warfare)は、優越した火力によって敵の物質的な資産の破壊の累積を通じて、勝利を追求する。強さの率直なテスト、戦力率の主要な事項として戦争を見ることは、戦争の遂行への直接のアプローチである。組織的に交戦し破壊するターゲットの集合体として、敵は見られる。集中した敵は最も価値があるターゲットとして求められる。消耗戦(attrition warfare)の論理的帰結は敵の全ての兵器の最終的な物理的な破壊である、しかしながら、期待するのは戦争により上昇するコストの負担のために不本意な状況になる前に、敵が降伏するか、撤退するということである。焦点は火力の効率的な適用にあり、そして、戦争への高度に手順化されたアプローチに通じる。技術的な熟練度は、特に武器運用において、狡猾さまたは創造性より重要である。

消耗戦(attrition warfare)は、重要な構成要素として機動を認識するが、それの目的は単に敵により効果的に負担を負わす我々の火力を運ぶことを可能にするだけであると見る。消耗主義者(attritionist)は、定量的に進捗を測定する傾向がある。それは会戦攻撃成果判定(バトル・ダメージ・アセスメント)、「戦死者数」、地形の占領である。結果は、努力と一般に比例する。より大きな支出は、より大きな結果を手に入れる、つまり、より大きな消耗である。量と射撃精度のための要求は集権的統制の方へつながる傾向があり、効率の強調が手順と技術において内向きの焦点に向かう傾向がある。成功は、消耗の能力容量(attritional capacity)における全体的な優勢、つまり、消耗を課して、緩和する実力(ability)に依存する。成功のために最も大きい必要不可欠な物は、数と物質的な優勢である。国家の次元では、戦争は軍事問題と同様に多くは産業上の問題である。歴史的に、数値的に、技術的に優れていると認められる国と軍隊は、消耗による戦争をたいていは採用した。

純粋な消耗戦(attrition warfare)が実際には存在するというわけではない、しかし、激しい消耗内容による戦い(warfare)の例は豊富である。その例は、第一次世界大戦の西部戦線の双方の作戦、1940年5月のドイツ軍に対するフランスの防御戦術と作戦、1943~1944年のイタリアの連合戦役(allied campaign)、アイゼンハワーの1944年のノルマンディーの後のヨーロッパにおける広正面攻撃、1950年以後の韓国でのアメリカ作戦、そして、ヴェトナム戦争の大部分のアメリカの作戦である。

領域(スペクトラム)の反対側に、機動による戦い(warfare)があり、敵に直面するよりはむしろ、問題を回避して、優位な位置から攻撃することの要求から生じる。敵兵器のあらゆる構成要素の累積的な破壊を追求するよりはむしろ、到達目標は敵「組織(system)」を攻撃する(組織的に敵を無能力(incapacitate)にする)ことである。敵構成要素はそのまま残存するが、まとまった全体の一部として機能することができない。敵の集中を、むしろ望ましいターゲットとして見ることより、敵の強みとして一般に避ける。敵の強みを攻撃する代わりに、到達目標は優位性を最大にするために、選ばれた敵の弱点に対する我々の強さを適用することである。このやり方は、このような弱点を識別して、活用する実力(ability)を必要とする。敵の組織(system)の特有の特徴を理解すること以外に、成功はそれほど手順と技術の効果的なパフォーマンスに依存しない。機動は、我々が敵の弱点に対して強みに集中することができないにも関わらずスピードと奇襲(surprise)に依存する。テンポは、それ自身で武器であり、たいてい最も重要である。消耗と違って、機動による成功は、たいていは掛ける努力に釣り合わない。しかし、本当は同じ理由で、無能に行使される機動は、破壊的な障害にとってより大きいチャンスをもたらす。消耗によって、潜在的損失は被られるリスクと比例している傾向がある。

火力と消耗は、機動による戦争の必要な要素である。実際、緊要な点に、強さを敵脆弱性に対して集中した場合、消耗は最大で、敵部隊の明白な殲滅を伴う。それにもかかわらず、このような局地的な消耗の対象は、単に全体的に段々に全敵戦力のすり減ることに寄与するだけでなくて、それが組織的に敵を無能力(incapacitate)にする重要な部隊も排除することである。

消耗戦(attrition warfare)の様に、機動戦(maneuver warfare)はそれの理論的に純粋な形となって存在しない。考えられる機動戦(maneuver warfare)であるといえるより十分な機動内容による戦い(warfare)の例は、1918年のパレスチナにおけるトルコ人に対するアレンビの決定的な戦役(decisive campaign)、1939-1941年のドイツのBlitzkrieg作戦における1940年のフランスの侵入が代表的である、1944年のアンツィオの失敗した連合国の上陸であり、これはイタリアの戦域の消耗会戦を避けようとした例である、1944年後半のノルマンディー上陸拠点からパットンの包囲突破、1950年のマッカーサーの仁川戦役(Inchon campaign)、そして、ヴェトナムにおける第3海兵上陸部隊連合行動計画で、これは地方の村の非聖域化を通して彼らの重要な民衆の支援基地を排除することによって、ベトコンを攻撃したものである。

全ての戦い(warfare)は、機動と消耗がいくらか混ざり合ったものである。支配的なスタイルはいろいろな要素に依存する、その要素は少なからず、我々自身の能力(our own capability)と敵の本質(nature of the enemy)である。第4章の「戦争の遂行」で分かるように、今日の米海兵隊ドクトリンは機動による戦い(warfare by maneuver)に基づいている。

戦闘力:COMBAT POWER

戦闘力は、我々が特定の時間において我々の敵に与えることができる全体としての破壊力である[16]。戦闘力のいくつかの要素は数の優勢度によって具体的に容易に計測できる。それをクラウゼヴィッツは「勝利の最も共通の要素」と呼んだ[17]。ただし、いくつかは容易には測れない、例えば機動・テンポまたは奇襲(surprise)の影響、地形や気象による優位性、攻撃と防御の相対的強度、あるいは、敵を正面から、または側面から、後方から叩く利点などである。さらに、無形の要素、例えばリーダーシップの士気(morale)、闘志(fighting spirit)、忍耐(perseverance)または影響(effects)などである。

戦闘力の全てのさまざまな構成要素をリストするか、分類して、彼らの相対値を割出すか、それらの組合せとバリエーションを説明しようとすることは我々の意図するものではなく、各々の組合せは特色があり、しかも一時的である。このようにすることや出来ることは望ましくなく、このことによって戦争に対してありきたりなアプローチをさせるだけである。我々の意図は、単に戦闘力は状況に依存し、物理的、精神的、心理的要素による特色を生むということである。

スピードと焦点:SPEED AND FOCUS

我々が戦争で認めることができる全てに一貫したパターンには、戦闘力を発生させる一般的に重要性な二つのコンセプトとしてスピードと焦点がある。

スピードとは、行動の迅速さである。両方ともに時間と空間に作用するものである。時間上のスピードがテンポであり、すばやく作用する一貫した実力(ability)である[18]。距離または空間上のスピードは、速く動く実力(ability)である。どちらの形態も真の戦闘力の源泉である。言い換えれば、スピードは武器である。戦争では、絶対的スピードよりも相対的スピードが重要な問題である。スピードの優越は主導性を握って、行動の条件を指図することを可能にし、敵に我々への対応を強いる。スピードは、安全を提供する。スピードは、機動と奇襲(surprise)のための前提条件である。さらに、スピードは決定的な時間と場所で優越した力を集中するために必要である。

相対的スピードが問題であるということは、我々が敵を低下させる一方、我々が我々自身のスピードを改善するためにあらゆる措置をとらなければならないことになる。しかし、経験から我々は無期限にスピードを高率に維持できない。その結果、速く、遅く、再び速くというパターンが生じる。有利であるならば、競争リズムは各々の交戦者との戦いにおいてスピードを生み出そうとすることに発展する。

焦点は、いくつかの目標に関する時間と空間の影響の集中である。焦点とは特定の時間と場所に優越した戦闘力を生成することである。焦点は、数値的に劣った戦力に対して決定的な局地における優勢を達成する。決定的な場所と時間に集中させる意欲(willingness)は、ほかの時間や場所における経済とリスクの厳しい受容を必要とする。不必要な努力へ手段や第二に必要となる努力への過度の手段を捧げることは、焦点の原則を冒涜し本来の目標に逆効果である。焦点は、戦争の遂行だけでなく戦争の準備にも適用できる。

戦争が流れ、機会が敏速に動いていれば、焦点はスペースにと同様に時間にまで適用する。我々は、決定的な場所だけでなく決定的な瞬間にも効果を焦点に集めなければならない。我々は、共通の目的の達成に向けて、協調によって焦点を達成する。このことは全てに戦力の要素に適用でき、地上戦闘、航空と戦闘戦務支援要素の調整を必要とする。

スピードと焦点の組合せは、「パンチ力」または「衝撃効果」を我々の行動に加える。このことは我々が「スピードと焦点」の最大可能な組合せによって叩くことにつながる。

奇襲と大胆さ:SURPRISE AND BOLDNESS

さらに次の二つのコンセプトは、特に戦闘力を発生させることに役立つ。それは奇襲(surprise)と大胆さである。

奇襲(surprise)によって、我々は抵抗する敵の実力(ability)を低下させるという思いもよらない事象に起因する方向感覚の喪失の状態を意味する。我々は、時間または場所で、または、敵が準備できていない方法で敵をたたくことによって、奇襲(surprise)を達成する。我々が気付いていない敵に対するということは重要でなく、しかし、敵が効果的な対応があまりにも遅くなるという認識が重要である。奇襲(surprise)のための要求は「全ての作戦に多かれ少なかれ基本的なことは決定的な点における優越なしでは考えられない」 ということである[19]。優越が必要な前提条件であるのに対して、奇襲(surprise)は心理的効果が奇襲自身の持つ戦闘力の真の源でもある。奇襲(surprise)は、手元にある物理的な手段以上に戦闘の成果に決定的に影響を及ぼすことができる。

奇襲(surprise)によって得られる優位性は方向感覚の喪失の程度と敵の調整し回復する実力(ability)に依存する。奇襲が、十分に厳しければ全体的にショックを引きずれるが、一時的ならば対応できない。奇襲(surprise)は、スピード、秘匿性、曖昧さと欺瞞に基づく。奇襲(surprise)はたいてい、より難しいことをやることを意味し、たとえば、攻撃方向を回り道させるとかであり、敵が予想しないことが望まれる。実際、このことは機動の起源であり、敵の強点を避け弱点をたたくということである。

奇襲(surprise)の要素はたいてい決定的に重要であるが、我々は達成するのは難しく、失敗するのは簡単であることを認識しなければならない。奇襲(surprise)の優位性は一時的で、すばやく活用されなければならない。摩擦(friction)という戦争の主たる属性は、奇襲の忠実な敵である。我々は、奇襲(surprise)が常に望ましい反面、達成する実力(ability)が単に我々自身の努力だけに依存しないと認識もしなければならない。奇襲(surprise)は、我々がやることでなく、我々がやることに対する敵の反応である。敵の奇襲(surprise)のかかりやすさのほとんどは少なくとも敵の予測と準備といった場合による。したがって奇襲(surprise)を達成する我々の実力(ability)は、敵の予測評価と、活用する我々の実力(ability)によることになる。したがって、奇襲(surprise)は決定的であるが、勝利を奇襲(surprise)にのみ依存することは危険である。

奇襲(surprise)を達成するための三つの基本的な方法がある。第一は、欺瞞(deceptionであり、我々が何かをするつもりであるように敵を納得させ、敵自身の利益になるという意味で我々が不利なふりをすることである。意図は、敵に状況の明快な絵、但し間違った絵を与えるということである。第二の方法は曖昧さ(ambiguityであり、敵が何を期待すべきかについて知らないことで成り立つ方法である。相手が何を期待すべきかについて知らないので、相手は多数の可能性のある準備をしなければならないが、十分にいずれの準備をすることができない。第三は秘匿性(stealthであり、敵に差し迫った行動についてのいかなる知識も与えないことである。敵は我々の意図に対して、だまされないか、混乱しないだけでなくそれらを完全に知らない。三つの中で、欺瞞は一般に最も大きい効果を与えるが、達成するのが最も難しい。

大胆さは奇襲(surprise)と同じように戦闘力の源である。大胆さは、重要でないものよりむしろ大きな結果を追求するために躊躇せず戦争の本来の不確実性(uncertainty)を活用することに特徴がある。クラウゼヴィッツによると、大胆さは、「どこにおいても優越できるようにスペース、時間と戦力の大きさを伴っている効を奏する計算に加えて、確定した力を与えられなければならず、そして相手の弱点を利用する。言い換えると、本当に創造的な戦力である [20]」 大胆さは直接の攻撃的行動と必ずしも等しくないけれども、大胆さはあらゆる場において弱気より優れている。我々が敵をたたく以前に、最終的な敵の行動にゆだねることも可能にする豪胆で計算された辛抱強さは大胆さの形であることもある。大胆さは、強力な状況認識に基づいている。我々は状況を比較検討し、行動する。言い換えると、大胆さは判断によって加減されるほどの無謀との境界上にある。

奇襲(surprise)と大胆さとの間に密接な関係がある。奇襲(surprise)を達成するためには、しばしば必要なリスクを受け入れるという意欲(willingness)は大胆さを反映していることになる。同様に、大胆さは奇襲(surprise)の達成に貢献している。我々は状況を比較検討した後、中途半端な措置を取ることは奇襲(surprise)の効果を減少させる。

重心と重大な脆弱性:CENTERS OF GRAVITY AND CRITICAL VULNERABILITIES

単に優れた戦闘力を生成するだけでは十分ではない。我々は、いくつかの無関係な努力に分散し、あるいは、いくつかの重要でない対象に集中する優れた戦闘力について容易に理解することができる。勝つためには、我々は決定的な目的(aim)に向かって戦闘力を集中しなければならない。これらについて考えることに役立つ二つの関連するコンセプトがあり、それは重心と重大な脆弱性である。

各々の交戦者は、一体の戦力でなく、それらの間の関係と同様に多数の物理的で、精神的で、心理的な構成要素からなる複合組織(system)である。これらの要素の組合せは、各々の交戦者の特色のある性格を決定する。これらの要素のいくつかは、他より重要である。いくつかは交戦者のものにわずかに力を寄与するだけである、そして、それらの損失は重大な損害を与えないだろう。他のものは、能力(capability)の基本的な源である。

我々は自分自身に尋ねる。どの要素が敵にとって重要か?」「何がなければ敵はできないのか?」「何が排除されれば、敵に我々の意志(our will)を最も素早く従わせられるか?[21]」これらが重心というものである。状況によるが、重心は、そのような決意や士気などの無形の特性でもある。それらは装甲部隊や航空力などの能力(capability)でもある。それらは地形の重要な部分というアンカーとしての全体防衛組織(defensive system)としての地域かもしれない。それらは、組織(system)、例えば2種類の武器の間の協調、同盟国の関係または二つの戦力の接合部など二つ以上の構成要素の関係であってもよい。要するに、重心は、強さの重要な源である。それらが味方の重心であるならば、我々はそれらを保護したい、そして、それらが敵の重心であるならば、我々はそれらに何らかの処置をする。

我々は敵の強みの源を攻撃しようとするが、その強みに直接攻撃しようとはしない。我々は、明らかに、相対的な敵の弱点に対して我々の強みを集中することによって、成功のより良い機会をえる。それで、我々も我々自身に「どこに敵の弱みがあるか?」と問いかける。戦場の条件によるが、それは、我々が一般的には敵の注意が集中し、そして敵の最も強い正面を避け敵の横腹と後部を捜さなければならず、敵が予期しないところと我々が最も大きい心理的なダメージを与えることもできるところである。我々は、敵が弱点にある時を捉えて叩くこともしなければならない。

我々が活用しようとする全ての弱点のいくつかは他のものより敵にとってより重大である。他のものが最小の成果を得る一方でいくつかは、敵の減殺に大きく貢献する。したがって、我々は重大な脆弱性に対して我々の努力を集中させなければならない、上手くいけば敵が我々に抵抗する実力(ability)に対して最も重大な損害を与える。

我々は、比較的少ない重心または重大な脆弱性の観点から敵の組織(system)を理解しようとしなければならず、そうすることによって、我々自身の努力を集中させるために我々を可能にする。我々が敵の重心や弱点をより狭めることができるほど、より容易に集中させることができる。しかし、我々は大部分の敵の組織(system)が単一な重心を備えていないと認識しなければならない。全ては場合によるが、そうでなければその重心はよく保護されている。所期の効果を得るために同時に、または順番にいくつかのより小さい重心または重大な脆弱性を攻撃することは必要である。

重心と重大な脆弱性は、補完的なコンセプトである。前者は敵の組織(system)を攻撃するために敵の強みの源を捜そうとするやり方で後者は敵の弱さを捜そうとすることである。重大な脆弱性は、重心を攻撃することへの経路である。両方とも、同じ根本的な目的があり、敵に最も大きい効果を与える方法で我々の行動のターゲットとすることである。

好機の構築とその利用:CREATING AND EXPLOITING OPPORTUNITY

この議論は、当然考えられること、好機の構築とその活用の重要性、をリードするものである。全ての場合において、指揮官は突然のことに反応し、また最初の行動から進展した状況によって構築される機会を活用する用意ができていなければならない。敵の重大な脆弱性の識別が特に難しいとき、行動によって決定的な機会を見つけるまで、指揮官は少しでも脆弱性を活用するほか仕方がない。敵対する意志(opposing will)が相互に作用することによって、それらはどの敵でもさまざまな束の間の機会を作る。このような機会は、多くの場合、戦争本来の霧や摩擦(friction)から生まれている。それらは我々の行動、敵の間違い(mistake)、あるいは偶然(chance)の結果であってもよい。機会を活用することによって、我々は多くの機会を増加させる。無情にも決定的な結果を生み出すこれらの機会を活用するには実力(ability)と意欲(willingness)が必要である。機会の優位性を得る実力(ability)は、スピード、柔軟性、大胆さ、および主導性の関数である。

結論:CONCLUSION

我々が説明している戦争の理論は、最終章の戦争の遂行の議論のための基盤を提供する。戦争のすべての行為は政治的行為であり、その戦争の遂行は、政策の目的(the aims of policy)を支援するために行われなければならない。戦争は戦争全体の努力を戦略的方向から会戦における戦闘力の戦術的な適用まで同時にいくつかの次元で行われる。最高の次元では戦争は政治的な力の全ての要素を使用する。そして、それは軍事力そのものである。戦争の行動は、全ての次元において、主導性と主導性を占有し続けようとする目標を伴う反応の間の相互作用の結果である。全ての戦い(warfare)においては、コンセプト、つまりスピード、焦点、奇襲(surprise)と大胆さを基礎とする。戦争における成功は、我々の努力を重大な弱点または重心に向けて、僅かな機会を認識して、活用する実力(ability)に依存する。議論したように我々の理論から派生する用兵ドクトリンは機動に基づくものである。

ノート

[1] Clausewitz, p. 87.

[2] 孫子著「兵法」S. B. Griffith訳(New York: Oxford University Press, 1982) p. 85.「戦争論(On War)」の様に、「兵法」は全ての海兵隊の将校の基本的な読み物である。読むには短く簡単で、「兵法」は紀元前400年の書物であるが今日でも価値がある。

[3] Winston S. Churchill著「世界の危機」、vol. 2 (New York: Charles Scribner’s Sons, 1923) p. 5.変遷は継続する:「軍事的術(military art)の傑作と見られるほとんど全ての会戦は、そこから国家の基礎と指揮官の名声が導かれ、それは、若干の新しい手段または道具で、若干の妙な、素早い、予想外の攻撃または戦略によって敵自身が破られる計略の会戦であった。多くの会戦において、勝者が失ったものは小さかった。名将の資質に必要とされるものは多くの常識と推理力だけではなく、想像力だけでもなくた、また、負かされると同じだけの敵をだませる独特で不吉な感覚の奇術の要素でもある。それは高貴な名誉を持った職業観で大量殺戮をせずに勝利を確実にする秩序の贈り物を軍事的なリーダーが持っていると信じられるからである…。「計略の多くの種が戦争においてある。そして、それのいくつかが戦場で行われる。計略は、遠く横腹または後方にある。計略は、時間に、外交に、仕組みに、心理学にある;その全ては戦場にはないが、しばしば決定的に作用する、主要な目的を達成するための絶対的な大量殺戮以外に、より簡単に見つけられる」

[4] Clausewitz, pp. 69 and 87.軍隊は他の国力の要素にとって代わるものでなくそれらを補足するものであると認識することは重要である。Clausewitzのこの有名な考えのアイデアのほとんどの完全な表現は605ページにある:「我々は、維持する…戦争は、他の手段をもってする政治の継続にほかならない。我々も明瞭にたどり着くことを望むので、その戦争は本来政治的な関係を停止しないか、政治を完全に異なる何かに変えるというわけではないことを明確に望むので我々は、慎重に『他の手段をもってする』のフレーズを使う」

[5] Ibid., pp. 87–88.

[6] 用語「殲滅」は、全ての敵の部隊と装備の無条件の物理的破壊を意味する。このことは、まず達成されなくて、滅多に必要でない。無能は、他方、文字通り、敵の抵抗する軍事的な能力の破壊であることを我々が伝達するために意味する。Hans Delbrück著「政治史における兵法の歴史」、Walter J. Renfroe, Jr訳、especially vol. 4, chap. IV (Westport, CT: Greenwood Press, 1975-1985)を参照.

[7] 疲弊の戦略は、古典的な軍事的な理論の漸減の戦略として知られている。コンセプトは、同じことである。我々は、消耗戦(attrition warfare)の戦術的コンセプトの混同を避けるために用語「疲弊」を使う。Delbrück,著especially vol. 4, chap. IV.を参照

[8] 戦争の戦略的次元:「国が、しばしば国の集団のメンバーとして国家であるか多国籍(同盟または有志連合)安全保障目標と指針を決定して、これらの目標を達成するために国家資源を開発して使う戦争の次元。この次元の活動は、国家で多国籍軍事的な目標を確立する;取り組みを順番付ける;限界を定義して、国力の軍事的で他の手段の使用について、リスクを評価;それらの目標を達成するためのグローバルな計画または戦域戦争計画の開発;そして、戦略諸計画に従って軍隊と他の能力を提供」 (Joint Pub 1-02)

[9] 国家戦略(また、大戦略とも云われる):「国家目標を保証するために、平和と戦争の間にその軍隊と共に国の政治的で、経済的で、精神的な力を開発して使う術と学」 (Joint Pub 1-02)

[10] 軍事戦略:「部隊の適用または部隊の脅威によって国家政策の目標を保証するために国の軍隊を用いる術と学」 (Joint Pub 1-02)

[11] 戦争の戦術的次元:「戦術単位またはタスクフォースに割り当てられる軍事的な目標を達成するために会戦と交戦が計画され実行される戦争の次元。この次元の活動は、戦闘目標を達成するために敵と相互に関して、戦闘部隊の秩序ある配列と機動に焦点を合わせる」 (Joint Pub 1-02)

[12] 戦争の作戦的次元:「戦域または作戦地域の中で戦略目的を達成するために戦役(campaign)と大規模な作戦が計画されて、遂行されて、維持される戦争の次元。この次元の活動は戦略目的を達成するために必要な作戦目的を確立することによって戦術と戦略とつながり、作戦目的を達成するために事象を順番付けていて、行動を開始して、これらの事象を起こして、維持するために資源を適用すること。これらの活動は、戦術より時間または空間のより幅広い次元を意味する;それらは作戦部隊の兵站と行政上の支持を確実とし、戦略目的を達成するために、戦術的成功が活用することによって手段を提供する」 (Joint Pub 1-02)

[13] Clausewitz, p. 357.

[14] Ibid., p. 528.

[15] 消耗-機動スペクトラムに関する素晴らしい議論と消耗と機動の新たな歴史的な例については、Edward N. Luttwak著「戦略:戦争と平和の論理」(Cambridge, MA: Belknap Press of Harvard University Press, 1987) pp. 91-112.を参照

[16] 戦闘力:「相手に対して所定の時間に適用することができる破壊的および/または破壊的な部隊全体の手段、軍事的な部隊/隊形」 (Joint Pub 1-02)

[17] Clausewitz, p. 194.

[18] テンポは、彼の講義(「紛争のパターン)でコンセプトを創始したJohn Boydの後の「決心サイクル」、「OODAループ」または「Boydサイクル」としてさまざまに知られている精神的なプロセスとしばしば関連している」 Boydは、4段階の精神的なプロセスを特定した:観察、方向付け、決心と行動。Boydはそれぞれは最初の紛争で状況を観察すると推理した。観察に基づいて、彼は指向する;つまり、彼は状況判断する。方向付けに基づいて、彼は決心する。最終的に、彼は決心を実行する-彼は動く。彼の行動が新しい状況を生み出したので、新たにプロセスが始まる。Boydはより速く一貫してサイクルを完了する部隊がそれぞれのサイクルで増加した優位を獲得すると主張した。彼の敵の反応は比較にますますゆっくりとして、それゆえに、より効果的でなくなり、最終的に、彼が事象で打ち勝つ。「勝利と失敗についての論説:紛争のパターン」、未発表の講義ノートと図(1987年8月)

[19] Clausewitz, p. 198.

[20] Ibid, p. 190.

[21]  Clausewitz著, pp. 485と595-596を参照。重心:「軍隊が戦うその行動の自由、物理的な強さまたは意志を導き出すそれらの特色、能力または場所」 (Joint Pub 1-02)

See Clausewitz, pp. 485 and 595–596. Centers of gravity: “Those characteristics, capabilities, or localities from which a military force derives its freedom of action, physical strength, or will to fight.” (Joint Pub 1-02)

米海兵隊のドクトリンを読む② MDCP 1 Warfighting その2” に対して2件のコメントがあります。

コメントは受け付けていません。