ロシアのウクライナに対する戦争 -現代のクラウゼヴィッツ戦争の複雑性- ④ロシア海洋理論 ロシア・セミナー2024
前回の投稿「ロシアのウクライナに対する戦争 -現代のクラウゼヴィッツ戦争の複雑性- ③ロシアの軍事指導部の文化的性質 ロシア・セミナー2024」に続いてロシア・セミナー2024の論文集の第4弾を紹介する。この論考は、ロシアにおける海軍の発達とその発展を支えた人物を観察したうえで、ロシア海軍がウクライナに対する戦争において見せた惨憺たる結果になった理由を探るものである。論者は海戦においても良好な政軍関係や海軍内における各指揮階層間の信頼関係が重要であると説き、その中でも海軍兵士の人材育成の重要性とその優位な人材の能力を十分に発揮させるミッション・コマンドのリーダーシップが持てる能力を発揮する鍵であると述べ、「ロシア海軍は、最も知的な海軍思想家たちが教えてくれた教訓を忘れ、信頼と独立の代わりに厳しい軍事・海軍教育に頼っているようだ」と批判的な表現で締めくくっている。(軍治)
ロシアのウクライナに対する戦争 -現代のクラウゼヴィッツ戦争の複雑性-
Russia’s war against Ukraine -Complexity of Contemporary Clausewitzian War- |
4_論文上と現実のロシア海洋理論
4_ RUSSIAN MARITIME THEORIES ON PAPER AND IN PRACTICE
エッシ・タルバイネン(Essi Tarvainen)
エッシ・タルバイネン(Essi Tarvainen)はフィンランド国防大学博士研究員、スウェーデン国防大学客員研究員。
ロシア・セミナー2024におけるエッシ・タルヴァイネン(Essi Tarvainen)のプレゼンテーションは、フィンランド国防大学(FNDU)のYouTubeチャンネル(https://youtu.be/P8VA1bT8ADs)3:12よりご覧いただける。
はじめに
本稿は、私の学位論文の最初の部分を短縮したものである。私は、18世紀初頭のピョートル1世(Peter the First)の治世から1991年のソビエト連邦崩壊まで、バルト海におけるロシア海軍の歴史を検証してきた。この研究の中で、私は、ロシア海軍が何世紀にもわたってどのように機能してきたかを示すパターンを発見したが、同時に、ロシアの海軍思想に影響を与え、発展させた重要で興味深い人物を含む、成功と複雑さも発見した。我々はまた、次のような問いを自らに投げかけるかもしれない。ミサイルと監視技術の時代に、古い海洋理論は適切なのだろうか?
答えはイエスだ。条件は変わるかもしれないし、技術の発展は避けられない。しかし、海は変わらないし、そのドメインで活動する個人も変わらない。一方、ロシアは歴史的なレトリックに非常に重きを置いている[1]。2022年9月6日のピョートル1世(Peter the First)の記念日にサンクトペテルブルクで行われた演説でプーチン大統領が述べたように、「ピョートル大帝は21年間、大北方戦争を繰り広げた。彼はスウェーデンと戦争し、スウェーデンから何かを奪ったようだ。彼は彼らから何かを奪ったのではなく、(ロシアのものを)返したのだ」[2]。このように、歴史を振り返ることはロシア海軍用兵(Russian naval warfighting)において不可欠な要素である。
この際、スティーブン・ブランク(Stephen Blank)博士が昨年書いた論文が私の研究の進展に貢献したことも付け加えておこう。ブランク(Blank)博士は、ロシア海軍が対ウクライナ戦争において4つの到達目標を持っていたことを指摘した。第一に、ロシア海軍の任務は黒海での封鎖を確立すること、第二に、陸軍と可能な水陸両用上陸作戦を支援すること、第三に、重要なターゲットにミサイルを発射することであった。第四の暗黙の到達目標は、NATOの黒海への参加や侵入を抑止することであった。ブランク博士によれば、ロシアの失敗はいくつかあった。第一に、ロシアはこれまで(つまり1年前)中央統合司令部を設立していなかった。第二に、ロシアは整備や兵站を含めて航海術(seamanship)が劣っていた。このため、巡洋艦モスクヴァや最近ではミサイル・コルベット艦イワノヴェッツ(Ivanovets)など、ロシア海軍の艦艇が何隻も沈没した[3]。
私の研究では、バルト海での主な会戦と、ピョートル1世(Peter the First)の時代(1696年)からソ連崩壊までのロシア海軍の発展を見てきた。私の論文は以下の質問に答えることを目的としている。
- ロシアの海軍思想はどのように発展してきたのか?
- その過程で重要な役割を果たした人物は誰か。
- どのような事実が、会戦に勝つことに成功した時期や、その逆を引き起こしたのか。海軍の作戦に失敗するパターンがあるだろうか?
ロシア海軍は、ウクライナ戦争が公式に勃発する前の2022年2月初旬、黒海で事実上の海上封鎖を行った。封鎖は、ジュリアン・コルベット(Julian Corbett)卿のような古典的な西洋の海軍理論においても重要な特徴である。コルベット(Corbett)は1911年に出版した著書「海洋戦略のいくつかの原則(Some principles of maritime strategy)」の中で、海の指揮を「海上通信の統制(control of the maritime communications)」と定義している。そしてこの到達目標は、安全確保(securing)、論争(disputing)、指揮権の行使(exercising command)といったさまざまな方法を用いることで達成できる[4]。
過去2年間に見たように、戦略レベルでは、ロシア海軍は指揮権を行使する方法を実行してきた。その理由は何かという問いに、コルベット(Corbett)の言葉から少なくとも一つの答えを見出すことができるだろう。「貿易の攻撃と防御の基本的な考え方は、『死骸のあるところに鷲は集まる(Where the carcass is, there will the eagles be gathered together.)』という古い格言に要約されるかもしれない」。この言葉によって、ジュリアン(Julian)卿は、最も肥沃な地域には常に最強の攻撃が集まるということを意味していた[5]。このように、ロシア海軍が戦略レベルで適用したと思われるコルベット(Corbett)の海軍理論を紹介した上で、次に、ロシア海軍の思想の発展に重要な役割を果たした重要人物とその思想に焦点を当てることにする。ロシア海軍用兵(Russian naval warfighting)の歴史は、さまざまに分類することができる。私は、この歴史を2つの段階に分けて分析することにした。第一に帆船の時代、第二に機械推進の時代である。
ピョートル1世
ハンコの会戦(Battle of Hanko)※でロシア海軍がスウェーデンに勝利したのは、ピョートル1世(Peter the First)(1672-1725)のおかげである。彼については、幼少期から指導者時代まで多くの著作があるが、これ以上深入りするつもりはない。しかし、今日でも見ることができるロシア海軍の最も重要な遺産を指摘しておこう。
※ ハンコの会戦(Battle of Hanko)は、1941年後半のフィンランドとソビエト連邦の間の継続戦争中にハンコ半島で戦った長い一連の小さな会戦(https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Hanko_(1941))
まず、ピョートル1世(Peter the First)は陸軍と新設された海軍との最初の連合作戦を実施し、アゾフ海、後にはバルト海での足掛かりを得た。したがって、海軍を陸軍に従属させるというロシアの伝統には長い歴史があるが、ピョートル1世(Peter the First)はそのようには考えていなかった。代わりに彼は次の表現をしている。「地上軍しか持たない支配者は片手しか持たないが、海軍を持つ支配者は両手を持っている(any ruler that has but ground troops has one hand, but the one that has a navy has both)」[6]。
さらに彼は、それ以来ロシア用兵(Russian warfighting)における重要な特徴となっている、限定された沿岸地域を掌握するという思想も取り入れた。
第二に、ピョートル1世(Peter the First)はロシアに産業スパイ(industrial espionage)とインテリジェンス収集(intelligence gathering)の慣行を導入した。彼がヨーロッパ、主にオランダとイギリスを訪れたのは好奇心からだけではない。それはまた、専門家(experts)や専門職(professionals)のロシアへのリクルートと移転にも関係していた。この知識は後に、ロシア海軍の造船とドックの設立に生かされることになる。地中海のガレオン(galleons)船のようなヨーロッパのモデルは、ほとんど利用されなかった。その代わりに、ロシアはスカンパヴェイジャス(skampavejas)のような独自の船型を設計することを好んだ。スカンパヴェイジャス(skampavejas)とは、長さ32~39m、排水量わずか1.5m、150~200人を乗せたガレー船(galleys)のことである。このタイプは群島での海戦(naval fighting)に適していた。このような独自のプロトタイプを設計・建造するという考え方は、多くの海軍でおなじみであり、ロシアも例外ではない。その理由のひとつは、主にオーク材が不足していたことであり、もうひとつは、純粋に独自の艦船を作ろうという意志があったことである[7]。
第三に、ピョートル1世(Peter the First)は最初の海軍兵学校を設立し、それによってロシアの航海術(seamanship)を深めた[8]。
第四に、軍事目標の背後に社会全体を結びつけるというロシアの文化は、ピョートル大帝の功績の一つであり、今でもロシアに生き続けている。農民への課税、軍事支援プロジェクトへの農民の利用、たとえば兵站の改善などは、新しい常識であった。彼の治世の間、課税は3倍になった[9]。
ピョートル1世(Peter the First)によって確立されたこれらの原則は、今日でもロシアの海軍・軍事思想の中で存続しているようだ。例えば、ロシア海軍は陸軍と協力しながら、より高い政治的到達目標を支援するために活動している。ロシアの産業スパイは近年、特にサイバースペースにおいて進化している[10]。ロシアはまた、現在、戦時経済への社会の準備を進めており、それを支えるために産業だけでなく市民とも調整も行っている[11]。
フョードル・ウシャコフ
18世紀から19世紀初頭にかけて、ロシア海軍は特に黒海で成功を収めていた。フョードル・ウシャコフ(Fyodor Ushakov)提督(1745-1817)は40回以上の会戦を指揮し、1隻の艦船も失わなかったと言われている。何がこの成功をもたらしたのだろうか? 結局、彼の戦術はウシャコフ・ドクトリン(Ushakov’s Doctrine)と名づけられ、ロシア海軍史上初の非公式ドクトリンとなった。彼は、困難なタスクを与えられた後に新しい戦術を開発した戦略家と見ることができる[12]。
ウシャコフ(Ushakov)の原則は簡単だった。
– 資材の手入れは不可欠
– 優れた戦略とは、全戦力を敵軍の一部に集中させることである
– 予想外の行動で敵の陣形(enemy’s formation)を崩す
– 負傷したロシア艦艇への熱心な支援
– 敵の弱点を突くこと
– 指揮官への責任委譲-ただし、ウシャコフ(Ushakov)が個人的に教育した後でなければならない[13]。
その意味で、ロシア国家から授与される海軍最高の栄誉のひとつがウシャコフ勲章(Order of Ushakov)であることは理にかなっている。皮肉なことに、エカテリーナ2世(Catherine the Second)が亡くなった後、アレクサンダー1世(Aleksander the First)はウシャコフ(Ushakov)にほとんど関心を示さず、ウシャコフ(Ushakov)は修道院に隠棲した。2001年、ウシャコフ(Ushakov)はロシア正教会によって列聖された。公式には、列聖の理由はウシャコフ(Ushakov)の軍歴ではなく、船員仲間やその家族に対する献身的な働きだった[14]。数カ月前の2023年10月20日、ロシアのセルゲイ・ラブロフ(Sergey Lavrov)外相が「無敵の提督 – 無敵のロシア。聖なる正義の戦士 フョードル・ウシャコフ(Fyodor Ushakov)」展の開会の辞を述べた。「この輝かしい軍事指導者は、傑出した海軍指揮官として、また祖国への無私の奉仕の並外れた模範として歴史に名を残した」[15]。
このように、ウシャコフ(Ushakov)は利己的でないリーダーの英雄的な例として利用されており、その聖人化は、2年前のこのセミナーでアリスティド・M・ラヴェイ(Aristide M. LaVey)が言及したように、ソフト・パワーの投影方法として利用されている。
フョードル・ウシャコフ(Fyodor Ushakov)以降、技術開発は急速に進み、海軍は帆船から機械推進の軍艦へと変貌を遂げた。それに伴い、戦術や海洋思想も新しい規範に合わせて変化させなければならなくなった。19世紀後半には、カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz)が戦争の闘い(war fighting)に関する原則を書いただけでなく、海事理論も紙に書き残された。例えば、アルフレッド・T・マハン(Alfred T. Mahan)提督やフィリップ・コロンブ(Philip Colomb)提督の著作は、出版後そのままロシア語に翻訳された[16]。しかし、どちらの理論家も主に戦略的なレベルに焦点を当てていた。
ステファン・マカロフ
ロシアでは、ステファン・マカロフ(Stepan Makarov)提督(1849-1904)が主に戦術レベルの海軍作戦に力を注いだ。英訳されたマカロフ(Makarov)の著作の序文で、ロバート・B・バサースト(Robert B. Bathurst)海軍大佐がこう書いている。
「世紀の初めには、海軍戦術に吸収すべき膨大な量の新技術があった・・・」。「ネルソン(Nelson)卿の偉大な戦いは、依然として海軍の頭脳を支配していた。海軍の作戦に関する先入観は、帆の優位性を反映していた。しかし、より強力な兵器、より広い航続距離、風に左右されない操艦能力によって、過去の海戦の研究は現在の準備としては不十分であった。無線通信と新しい機動能力は、海戦を根本的に変えるだろう。これらすべては、偏見や区分けされた思考から解放された、革新的で想像力豊かな思想家を必要とした。それがマカロフ(Makarov)提督が帝政ロシア海軍で果たした役割であった」[17]。
マカロフ(Makarov)は海軍士官であるだけでなく、海洋学者、海軍技師、学者でもあった。29歳のとき、魚雷艇とそれに対応する戦術を革新的に考案した[18]。ヴィティアス(Vitiaz)号で世界一周航海を行い、世界初の砕氷船ジェルマク(Jermak)やロシア初の掃海艇を設計した。キャップ付き徹甲弾(capped armor-piercing shell)を発明し、無煙火薬を導入し、軍艦の生存率を向上させた[19]。
技術的、地理的、海軍的スキルに加えて、マカロフ(Makarov)は「モルスコイ・スボルニク(Morskoi Sbornik)」誌に一連の記事を執筆し、後に「海軍戦術における質問の議論(Discussions of Questions in Naval tactics)」と題された。この一連の記事の中で、マカロフ(Makarov)は乗組員と海軍士官の心理学的、教育学的スキルの重要性を強調している[20]。
マカロフ(Makarov)の同僚たちからの評判は、必ずしも温かいものではなかった。批評家の中には、マハン理論家(Mahanian theorist)のニコライ・クラド(Nikolai Klado)や、後に第二太平洋戦隊司令官となるジノヴィ・ロジェストヴェンスキー(Zinovy Rozhestvensky)がいた。マカロフ(Makarov)はこれらの難題に応えたが、当局の公式承認が得られず、この本は1904年までロシアで未刊のままだった[21]。後に20世紀初頭の議論で明らかになるように、彼の同僚たちはすでにアルフレッド・マハン(Alfred Mahan)に触発されていたと推測できる。ピョートル1世(Peter the First)とウシャコフ(Ushakov)提督の足跡をたどれば、「大規模な外洋航行艦隊と決戦というマハンの思想(Mahanian idea of a large ocean going fleet and decisive battle)」が、帝政の海軍士官たち(tsarist naval officers)にとって魅力的に映ったのだと考えることができる。
マカロフ(Makarov)の作品の主なテーゼは何だったのか? マカロフ(Makarov)は、帝国政策を最高の主導的要素だと考えていた。その次に海軍戦略である。彼は、近代的な海軍戦術家は、過去の会戦や実践に導かれるのではなく、手近な技術や兵器を第一に検討すべきであると考えた。そのうえで初めて、それらを使用する手段を選択すべきである。海軍の軍艦やプラットフォームは、帝政ロシアの政策目標を達成するためのものだった[22]。マカロフ(Makarov)はまた、陸軍と海軍の戦術上の違いについての質問に対して、次のようにコメントしている。
「一般的な戦術体系は1つしか存在しないのか、それとも軍事戦術と海軍戦術を区別する必要があるのか。陸上の戦友たちは、自分たちよりも早く自分たちの職業を科学に昇華させた。これは、陸上での戦争が海上で行われるよりも大規模に行われたため、陸上で行われる戦争の方法が、水のような気まぐれな要素で行われる場合よりも一般化しやすかったためである」[23]。
マカロフ(Makarov)は、艦隊の目標も陸軍の目標も同じで、敵を倒すことだと付け加えた。結果を達成する方法はまったく異なる[24]。しかし、陸軍の一部を予備として保持することは軍事作戦の基本だが、海戦(naval battles)ではそのような予備は保持されないと付け加えた。
技術や兵器に重点を置いていたため、マカロフ(Makarov)はこれらのシステムやプラットフォームを支える人材の育成の意味も理解していた。彼は、ナポレオン(Napoleon)、ネルソン(Nelson)、スヴォーロフ(Suvorov)が率いた最新の会戦を例にとり、乗組員の士気(morale)に注目した。マカロフ(Makarov)は、高等軍事学校のカリキュラムに軍事心理学のコースを組み込むことの重要性を認識していた。これらの基本原則は彼の一連の著作の中で紹介されており、次のような例がある。1) 戦争が個人と軍事組織全体に及ぼす影響を研究することが不可欠である[25]。2) 海戦ではスピードが重要で、時間の間隔は秒単位で数えられるため、道徳的要素が重要となる。3) 乗組員の精神状態は、軍務遂行を任されたすべての人々の相互関係にかかっている[26]。
こうした心理的、道徳的な到達目標を達成するために、マカロフ(Makarov)は個人とその性格に焦点を当てた建設的な方法で海軍教育学を発展させようと躍起になっていた。彼自身の言葉を借りれば 「・・・しかし、人の性格や理解力は千差万別であり、同じ方法を用いても二人の個人には役立たない。ある者は励まされ、ある者は抑制され、そのいずれをも落胆させないように注意しなければならない」[27]。彼の人間主義的なアプローチを体現するこの記述からすると、旅順港での彼の死が1904年の日露戦争中のロシア船員の士気(morale)に深く影響したことは驚くべきことではない。最愛の提督を失ったことで、ロシア艦隊は麻痺し、ロシアが戦争に負けた複数の理由の一部となったと言われている。彼はどこにでも姿を見せ、船を訪れ、兵士と話し、数ヶ月の不摂生を覆すために行動命令を出していたからだ[28]。
マカロフ(Makarov)は、軍事・海軍教育を、個人レベルから始まり、学校教育、文献の読解を経て、熟練した海軍士官や乗組員の訓練に至る国家的な取り組みとみなしていた。彼はこう説明する。「すべての人間は母親から最初の訓練を受け、幼少期に植え付けられたものは生涯を通じて残る」。そして、平和に慣れ親しんだ国家とその親が、いかにして軍事的勇気(military valor)を失い始めるのかを彼は明らかにしていく。それは、この義務(duty)が政府の義務(duty of the government)となったときである[29]。
最近のロシア国家の発展を見ていると、マカロフ(Makarov)の考え方が反映されているように思える。第一に、国家の政策を実現するための兵器技術とプラットフォームの役割は非常に生きている。例えば、ブヤンM級コルベット(Buyan M-class corvettes)からのカリブル打撃(Kalibr strikes)や、バル(Bal)やバスティオン(Bastion)系列の海岸任務複合体は、そのような考え方を象徴している[30]。第二に、軍事教育を国家の役割と見なす思想は、青年軍事組織の台頭や全国的なプロパガンダに見ることができる。家庭は基礎的な教育を提供し続け、学校や専門教育者は国家が定めた原則に沿った知識を授けるタスクを担っている。このことは、ロシア国家の愛国的プログラムや、徴兵が小学校で行われるという事実からも見て取れる[31]。
しかし、この現状がマカロフ(Makarov)の望んだものなのかどうかはわからない。彼が海軍教育学(naval pedagogics)で重視したのは、国家が支援する愛国主義ではなく、教育の質であり、個人の大胆さ(boldness)、覚悟(readiness)、知覚(perception)の育成であり、彼はそれを徹底的に説明している[32]。第三に、マカロフ(Makarov)は乗組員にとっての長距離航海(long-distance voyage)の教育的意義を認識していた。この伝統はロシア海軍だけでなく、他の海軍でも受け継がれている。最後に、マカロフ(Makarov)の兵器と艦船設計に関する先駆的かつ革新的な仕事は、おそらく多くのロシア海軍士官や技術者に刺激を与えたことだろう。
マカロフ(Makarov)が士気(morale)と心理訓練(psychological training)を重視したことは、ソ連の赤旗海軍(Red Banner Navy)時代も現在のロシア海軍でも忘れられているようだ。私の考えでは、これは長い権威主義体制(authoritarian regime)の結果だと思う。スターリン(Stalin)時代とその後の数十年間、政治将校(political officers)はさまざまなプラットフォームで学術的でオープンな議論を抑圧した。考え、行動し、批判する勇気のある者は、命を落とす粛清に直面した。しかし、これは海軍では問題である。海軍のプラットフォームは、最も危険な状況でも、階級に関係なく隣の者が助けてくれることを各メンバーが知る必要がある、大きな繁栄した家族として運営されるのが最適なのだ[33]。ニュースや記事では、ロシア軍の士気(morale)の低さ、いじめや贈収賄が明らかになっている。8年前、バルチック艦隊の首脳陣が大きく変わったのは、こうした理由が主な理由だった[34]。
しかし最近の研究によると、ロシアでは士気(morale)というコンセプトに対する理解が西欧とは異なっている。ロシアの士気(morale)における3つの重要な要素は、精神性(spirituality)(ロシア語:Dukhovnost)、共同性(communality)、強制性(coercion)である。しかし、最初の「精神性(spirituality)」は精神的な傾向が強く、自分自身の長所や短所を誤解してしまうような錯覚に陥りやすいようだ。一方、強制性(coercion)はほとんどの軍隊に共通するものである。ロシアの場合、強制力、ルーティン、規律が効果的に使われていないことが、海軍を含むロシア軍の道徳の低さとパフォーマンスの低さを説明している[35]。
結論
ロシア海軍の歴史には数多くの重要人物がいるが、そのすべてが海軍戦術の考案者であったり、すべての会戦で勝利を収めたというわけではない。最も勝利を収めた海戦は、まず、勇気(courage)、信頼(trust)、献身(commitment)を示し、その結果、仲間の仲間に心理的影響を与えた、そのような人物の指揮下にあったようだ。第二に、彼らは軍事的発展の変化に適応できる新しい戦術を開発する必要性を理解していた。第三に、国家統治において信頼を得ていた人々である。例えば、ウシャコフ(Ushakov)や有名な陸軍司令官アレクサンドル・スヴォーロフ(Aleksander Suvorov)はエカテリーナ2世(Catherine the Second)皇后から、マカロフ(Makarov)はニコライ2世(Nikolai the Second)から信頼されていた。一方、ピョートル1世(Peter the First)は明白な理由からそのような承認を求めず、最終的な意思決定の前に軍事顧問や議会を広く利用した。そして第四に、帝国の信頼がミッション・コマンド戦術(mission command tactics)につながった。
論争好きで、気分屋で、自己主張が強く、権威主義的な権力(authoritarian power)を行使するリーダーは、しばしば船舶の生産と海軍のリーダーシップの両方を頓挫させてきたように思われる。どちらも長期的な視野に立って計画策定され、実行されるべきである。マカロフ(Makarov)提督の業績は部分的にしか利用されなかったが、その理由は推測するしかない。マカロフ(Makarov)は、ネルソン(Nelson)提督を勝利に導いた要因を深く分析し、海軍教育学にも同じようなアプローチを提案していたからだろうか。私の目から見ると、帝政ロシアの指導部もソビエトの統治も、西側諸国で起こった発展を認め、それを取り入れることに消極的だったように見える。マカロフ(Makarov)提督がロシア海軍の歴史とその指導者たちからだけ例を引いていたら、反応は違っていたかもしれない。しかし、マカロフ(Makarov)は学者として、事実を客観的に示すことに固執した。
最後に、なぜ現在のロシア海軍が黒海で期待されるような十分な力を発揮できていないのか、その分析に戻りたい。歴史的な会戦、リーダーシップ、統治(governance)を振り返ってみると、ロシアは、自国の海軍にミッション・コマンド・リーダーシップ(mission command leadership)が適用され、その結果、戦術と結びついた士気(morale)と海軍教育学(naval pedagogics)の意味を理解する指揮官が育成されたときに、より良い成功を収めてきた。戦略的到達目標は一貫して母なるロシアを守ることであり、当初は陸軍と協力し、後に空軍が加わった。
兵器は開発されたが、乗組員は依然としてプラットフォームを操作している。不信、恐怖、腐敗といった雰囲気が船内に蔓延していれば、最も不安定な状況でもパフォーマンスが低下する可能性が高い。ジェオフィー・ティル(Geoffey Till)によれば、1930年代のロシアのように 「海軍士官にとって、革新的な考えに対する報酬は後頭部に銃弾を撃ち込まれることだと結論付けるのは簡単だった」[36]。銃弾はもはや脅威ではないかもしれないが、巡洋艦モスクヴァ(Moskva)とミサイル・コルベット艦イワノヴェッツ(Ivanovets)の沈没とその後の秘密のベールは、仲間の指揮官や同志たちに、指揮階層における自分たちの地位が安全ではないことを伝えたに違いない。ロシア海軍は、最も知的な海軍思想家たちが教えてくれた教訓を忘れ、信頼と独立の代わりに厳しい軍事・海軍教育に頼っているようだ。どちらの失敗も、海軍資産の能力を著しく低下させている。
最後に、ウシャコフ(Ushakov)提督が1799年に同僚のプトシキン(Putoshkin)提督に宛てた手紙を紹介しよう。
「・・・私はあなた方の合理性と思慮深さを信頼している。アレクサンドル・スヴォーロフ(Aleksander Suvorov)伯爵殿下がお決めになった到達目標を達成するために、ご尽力ください。そして、リヴォルナ(Livorna)経由で、あるいは他の最適と思われるルートで、ここに到着されましたら、添付した手紙とともに、殿下にご報告をお送りください」[37]。
原文:ロシア語
(”Все оное полагаю я на ваше благоразумие и обстоятельства. Употребите старание ваше выполнить желания его сиятельства графа Александра Васильевича Суворова-Рымникского и в приходе туда, через Ливорну или откуда будет удобнее, отправьте к его сиятельству ваше донесение, также и прилагаемое от меня письмо.”)
ノート
[1] Gudrun Persson: ”Russia and Baltic Sea Security” Available at: https://doi.org/10.2307/j.ctvvnh3m.7 Ann- Sofie Dahl (ed.) Strategic challenges in the Baltic Sea region: Russia, Deterrence and Reassurance, 2018, p. 24.
[2] Vladimir Putin’s speech in St. Petersburg, Available: https://www.reuters.com/world/europe/hailing-peter- great-putin-draws-parallel-with-mission-return-russian-lands-2022-06-09/, June 9th 2022.
[3] Stephen Blank: ” The Black Sea and beyond; an initial assessment of Russian naval strategy and operations in the war against Ukraine.” Available: https://www.doria.fi/bitstream/handle/10024/187854/Russia%20Seminar%20publica- tion_2023_web_v2%281%29.pdf?sequence=3&isAllowed=y National Defence University, Department of Warfare, Russia Seminar 2023, pp. 85-108.
[4] J.J. Widén: Theorist of Maritime Strategy Sir Julian Corbett and his Contribution to Military and Naval Thought, Routledge, London & New York 2016, pp. 116, 120.
[5] Ibid, p. 119.
[6] See for example Michael Kofman:” Evolution of Russian naval strategy”, Edited by Andrew Monaghan and Richard Connolly: The sea in Russian strategy, Manchester University Press 2023, p. 94.
[7] Aarni Lehti: ”Synpunkter på kustoperationerna mellan Lappvik och Rilax”, Edited by Nils Erik Villstrand & Kasper Westerlund, Stor seger – litet nederlag? Meddelanden från Sjöhistoriska institutet vid Åbo Akademi nr 34, Fram, Vasa 2015 p.39. See also: Pavel Krotov: ” Slaget vid Hangö udd 1714: forskningens huvudsakliga resultat och framtidsutsikter”, Edited by Nils Erik Villstrand & Kasper Westerlund, Stor seger – litet nederlag? Meddelanden från Sjöhistoriska institutet vid Åbo Akademi nr 34, Fram, Vasa 2015 p.53.
[8] Donald W. Mitchell: A History of Russian and Soviet Sea Power, André Deutsch Limited, UK, 1974 pp. 28–30.
[9] William C. Jr Fuller: Strategy and Power in Russia 1600–1914, The Free Press, New York USA, 1992, pp. 56– 61.
[10] Massimo Pellegrino: The threat of state-sponsored industrial espionage Available: https://www.iss.eu- ropa.eu/sites/default/files/EUISSFiles/Alert_26_Industrial_espionage.pdf, European Union Institute for Security Studies, June 2015.
[11] Kyrylo Ovsyaniy and Schemes: Satellite Images Suggest Russia Is Ramping Up Production Capacity for Its War Against Ukraine, Available: https://www.rferl.org/a/russia-ramping-up-war-production/32658857.html.
[12] Доценко В. Д.; Доценко А. А.; Миронов В. Ф.: «Стратегия в период парусных флотов.» Военно-Морская стратегия России. Terra Fantastika, СПБ, Эксмо, Москва 2005, p. 33. See also: Donald W. Mitchell: A History of Russian and Soviet Sea Power, André Deutsch Limited, UK, 1974 pp. 76–80.
[13] В. Д. Овчинников: Флотоводческое Наследие Адмирала Ф. Ф. Ушакова, Voenno-istoricheskii zhurnal, 2009, No 2, s. 22-25, Available: https://dlib-eastview-com.mp-envoy.csc.fi/browse/doc/19716510t. See also: Donald W. Mitchell: A History of Russian and Soviet Sea Power, André Deutsch Limited, UK, 1974 pp. 76–80.
[14] Aristide M. LaVey: “Admiral Ushakov, the study of Russian power projection” Availa- ble:https://www.doria.fi/bitstream/handle/10024/185874/Russia%20Seminar%20publica- tion%202022_web.pdf?sequence=1&isAllowed=y, National Defence University, Department of Warfare, Russia Seminar 2022, p. 73.
[15] Sergey Lavrov speech, available: https://mid.ru/en/foreign_pol- icy/news/1910569/?TSPD_101_R0=08765fb817ab2000f1de83a0d2a7f52d6b1ca768e95ccf2f4ce0561a26f13f 152feff881c253739708e643d1b0143000abd5e935f45d7a143fa5c9b056ed- abd3347aa281828b4d253c50dddac525da83d0c5089389aba555292171212f91917c, October 20th 2023.
[16] Доценко В. Д.; Доценко А. А.; Миронов В. Ф.: Морская стратегия в период паровых броненосных флотов. Teoksessa Военно-Морская стратегия России. Terra Fantastika, СПБ, Эксмо, Москва 2005, pp. 77–79.
[17] Robert B. Bathurst:” The lessons of a Russian Naval Genius”, Introduction to Stepan Makarov, Discussion of Questions in Naval Tactics, Classics of Sea Power -series, U.S. Naval Institute, Annapolis, Maryland USA, 1990, pp. xxv.
[18] Ibid, pp. xix.
[19] Президентская вивлиотека имени б.Н. Ельцина: родился выдающийся русский адмирал Степан Осипович Макаров. Available: https://www.prlib.ru/history/618926 See also: Mitchell, Donald W.: A History of Russian and Soviet Sea Power, André Deutsch Limited, UK, 1974 s. 201–202. See also: David R. Jones: “Admiral S.O. Makarov and Naval Theory”, available: https://www.jstor.org/stable/44642488, Naval War College Review, winter 1994, Vol.47, No.1 pp. 68-86.
[20] Г. Васянович: «Психолого-педагогические идеи адмирала С. О. Макарова», Morskoi Sbornik Available: https://dlib-eastview-com.mp-envoy.csc.fi/browse/doc/35529084, No.7, July 31, 2013, pp. 65–72.
[21] David R. Jones: “Admiral S.O. Makarov and Naval Theory”, available: https://www.jstor.org/stable/44642488 Naval War College Review, winter 1994, Vol.47, No.1 pp. 68−86.
[22] Ibid, See also: Stepan Makarov: Discussion of Questions in Naval Tactics, Classics of Sea Power -series, U.S. Naval Institute, Annapolis, Maryland USA, 1990, p. 37.
[23] Ibid, pp. 30–31.
[24] Ibid p. 32.
[25] Г. Васянович: «Психолого-педагогические идеи адмирала С. О. Макарова», Morskoi Sbornik Available: https://dlib-eastview-com.mp-envoy.csc.fi/browse/doc/35529084, No.7, July 31, 2013, pp. 65–72.
[26] Stepan Makarov: Discussion of Questions in Naval Tactics, Classics of Sea Power -series, U.S. Naval Institute, Annapolis, Maryland USA, 1990, p. 47.
[27] Ibid. p. 48.
[28] Robert B. Bathurst: ”The lessons of a Russian Naval Genius”, Introduction to Stepan Makarov, Discussion of Questions in Naval Tactics, Classics of Sea Power -series, U.S. Naval Institute, Annapolis, Maryland USA, 1990, pp. xxxii-xxxiii.
[29] Ibid, pp. 99–100.
[30] Liv Karin Parnemo: ”Russia’s Naval Development – Grand Ambitions and Tactical Pragmatism”, Available: https://doi.org/10.1080/13518046.2019.1552678, Journal of Slavic Military Studies 2019, Vol. 32, No. 1, 41-69. See also: Geoffrey Till, “Russia: a sea power of a sort?” Edited by Andrew Monaghan and Richard Connolly: The sea in Russian strategy, Manchester University Press 2023, p. 71.
[31] Alava, J.: 2021. Russia’s Young Army: Raising New Generations into Militarized Patriots. In: Pynnöniemi,
K (ed.), Nexus of Patriotism and Militarism in Russia. Helsinki: Helsinki University Press, DOI: https://doi.org/10.33134/HUP-9-9.
[32] Stepan Makarov: Discussion of Questions in Naval Tactics, Classics of Sea Power-series, U.S. Naval Institute, Annapolis, Maryland USA, 1990, chapter 3.
[33] Г. Васянович: «Психолого-педагогические идеи адмирала С. О. Макарова», Morskoi Sbornik Available: https://dlib-eastview-com.mp-envoy.csc.fi/browse/doc/35529084, No.7, July 31, 2013, pp. 65–72.
[34] Norman Friedmann: ”World Naval Developments – What was behind Putin’s Stalin-style purge?”, available: https://www.usni.org/magazines/proceedings/2016/september/world-naval-developments-what-was-behind-putins-stalin-style September 2016, Vol. 142/9/1,363.
[35] Pär Gustafsson Kurki: “The Russian Understanding of Soldier Morale: Essentials of key ideas from 1990s to 2022” Available: https://www.foi.se/report-summary?reportNo=FOI-R–5481–SE, October 2023, FOI.
[36] Geoffrey Till: “Russia: a sea power of a sort?” Edited by Andrew Monaghan and Richard Connolly: The sea in Russian strategy, Manchester University Press 2023, p. 61.
[37] В. Корявко: Военное Искусство Адмирала Ф. Ф. Ушакова, Morskoi Sbornik, 5/2011, pp. 17−18, https://dlib-eastview-com.mp-envoy.csc.fi/browse/doc/25172103.