作戦術の歴史 – A History of Operational Art - (MILITARY REVIEW 2018)
軍事思想にかかわるコンセプトの中で欠かせないものに作戦術(Operational Art)がある。今では、主要国の軍事思想や軍事理論上の議論をする上で作戦術は既知のものとなっているが、日本においてはまだ未熟なままであるのかもしれない。クラウゼヴィッツの戦争論の時代から政治と戦争の関係性、政治家と軍人の関係性は整理すべき課題であったと理解できる。
科学・技術の進展が軍の装備を進化させ、戦い方を変化させてきた結果、軍の行動とその結果は国家の戦争目的に緊密にかつ複雑に絡み合っている。戦争の次元(Levels of War)のコンセプトは、そのような政治と軍事の関係性を明示的に理解する必要性から生まれてきた。国家の目的の近くに存在する戦略と、軍人の正に命を賭した戦いの領域に位置する戦術は、コンセプト的には、時間的・空間的な隙間が存在していた。科学・技術の進展は戦場を広げ、戦いの方式を少しずつ増やし、一つの戦争における軍人が行ういくつもの戦術的成果の関係を政治的目的に繋げていく必要性が自然と起きてくることになる。
正に、戦術的次元と戦略的次元を橋渡しするコンセプトが必要になってくる。このコンセプトが作戦的次元であり、この課題に直面したのが、19世紀のプロシアである。第一次世界大戦後、本格的に取り組んだ軍人が存在したのがソビエトであった。第一次世界大戦の消耗戦による多大な被害と運動性や機動性の向上を伴って戦場が広がりを見せる中でソビエト軍の理論家たちは作戦的次元における作戦術の考えを体系化していった。
以下に紹介する論文は、軍事思想を語るうえで欠かせない作戦術(Operational Art)の起源とほぼ現代に至るまでの発展過程を辿ったものとなっている。本論文では作戦術の理論の詳細を語ってはいないが、作戦術に対する批判も含めて、作戦術が湾岸戦争で有効であったこと、そして本来の作戦術の姿は変わっていくかもしれないが引き続き起こっている科学・技術の進展に伴ってあたらな作戦環境での作戦術の在り方を考察する必要性と、その有効性を検証する取組みの重要性を想起させる。
キネティックで殺傷能力の高い手段による戦いから、ノン・キネティックで非殺傷型の手段による戦いへと戦争の様相が変化していく中で、情報作戦(情報戦、サイバー戦、電子戦、電磁戦、心理戦等々)も作戦術が取り扱う手段として認識することが求められてきている。ノン・キネティックな部類の情報作戦は人間の単純な五感だけでは理解しにくいがゆえに、作戦術との関係を理解するには骨が折れよう。
作戦術の起源と戦争の次元、戦いの次元について論理的に理解し、更に戦闘、交戦、会戦、作戦、戦役が意味するそれぞれの戦いの主体と空間的・時間的な意味合いを振り返る必要性を感じさせてくれる論文といえよう。(軍治)
作戦術の歴史
A History of Operational Art
MILITARY REVIEW ● Nobember-Decemberl 2018
Lt. Col. Wilson C. Blythe Jr., U.S. Army
ウィルソン・C・ブライス・ジュニア(Wilson C. Blythe Jr)米陸軍中佐は、米陸軍能力統合センターの戦略家である。彼の軍歴にはイラクとアフガニスタンでの展開配置が含まれる。ミシシッピ大学の歴史学の学士、東ミシガン大学の歴史学の修士を取得している。現在はノーステキサス大学で軍事学の博士号を取得中である。米陸軍歴史財団の著作賞を2013年に受賞している。
1866年7月3日朝、ケーニヒグレーツの会戦 (画像提供:www.battlefieldanomalies.com) |
作戦術は、現代の軍事思想における最も注目すべき、論争の的となっているコンセプトのひとつである。作戦術は、戦間期にソビエトから出現し、20世紀末までには、主要な軍事大国のドクトリンの不可欠な構成要素となった。作戦術の理論的構成は、戦争の戦術的次元と戦略的次元の特性を組み合わせ、戦術的行動を戦略的最終目的(strategic ends)に奉仕させるための繋がりを提供する。作戦術は、抽象的な各戦略的到達目標(strategic goals)を、指揮官が達成できる機械的用語(mechanical terms)に変換することによって、このような取組みの調和を確実なものにする。このように、作戦術は「現代の戦略と戦術との間の仲介、方法的方法」としての役割を果たし、そして、「戦術的行動の配置が行き当たりばったりなものではなく、より重要なことに、戦術的行動の配置を、他の要因ではなく、戦略的目標(strategic objective)の追求にいつでもどこでも一つにするデバイスであることを保証する」ものである[1]。本稿では、ソビエトにおける作戦術のコンセプトの発展、米軍隊による最終的な採用、および作戦術の有用性に関する現代の議論について論じる[2]。
1936年、ソビエト軍Mikhail Nikolayevich Tukhachevskyの元帥 (写真提供:ウィキメディア・コモンズ) |
より致死性の高い、より長射程の戦場の影響
移動と兵器の進化という戦争の手段の変化を伴ったフランス革命で始まった軍の規模上の大兵力化は、軍の戦い方を変化させることに気づかなかった。敵が見えるようになると、過ぎに敵が交戦する地点に対する兵器の射程が広がることで、会戦の進み具合に重大な変化が生じた。指揮官は接敵行進と会戦の間の休みの時間が消えゆくのを目の当たりにした。接敵行進と会戦は一つにつながった。この例は、1866年のケーニスグレーツでプロシア軍がオーストリア軍を破った戦いに見られる。そこには、プロシア軍の接敵行進とオーストリア軍への攻撃の間に時間的間隙は見られなかった。会戦上の必要性が行進のための組織と行進の遂行を指示するものとして会戦と行進はそれぞれ有機的な全体の中の一つであった[3]。
このような動きは、ナポレオンの時代のように、もはや戦闘が単一の地点に集中するのではなく、むしろ、軍隊がますます長くなる線上の中に展開させるものであることを意味していた。このような水平的な傾向は、戦闘が軍隊間の接触戦の広がりに沿って空間的に分散されるにつれて、取組みの分散をもたらした。これらの開発は、「軍事術の進化における新しい時代-線形戦略の時代」をもたらした[4]。軍隊の規模の拡大と戦争手段の変化にもかかわらず、19世紀後半の戦線は連続していなかった。その代わり、これらの戦線は破壊され、2つの力の間の明確な接触点から構成されていた[5]。
ドイツ統一戦争は、軍事理論家に、戦略と戦術のより強力な繋がりの必要性を強調することになった。ドイツ統一戦争が起こった後、軍隊は敵の翼則に決定的な結果を得たいとの希望から、拡大を続けた。この前面から横方向の拡大は、その縦深の増加を伴った。このような縦深の変化は、戦線の深さが増すにつれて、攻撃部隊が防御を通して戦い、その目的を達成するのに時間がかかるようになったため、戦争の要因となった時間の状況を変化させた[6]。
少なくともHelmuth von Moltkeプロシア軍元帥以降、指揮官は、目標を達成するために、個別の戦術的行動を指導するだけでなく、個別の戦術的行動を目標の達成に繋げる任務を与えられていた。これらの行動は、地理的にも、ますます一時的なものとして、互いに切り離されていった。これは、「戦役の計画策定と遂行は、戦役全体の一塊のもの(chunk)、あるいは部分に基づいて始まる」ことを意味していた。これらの各部分は作戦として知られるようになり、最終的には作戦術を生み出した[7]。作戦的な規模の戦線に対して成功裏の攻勢を遂行する能力は、各戦略的目標(strategic objectives)を獲得するための鍵であった[8]。
第一次大戦の軍隊は、作戦規模で決定的な攻勢結果を達成することがほとんどできなかった。戦術的な考慮事項は、作戦の条件を指図するためにしばしば許された。このことは、主要な攻勢の推進力は、「約束された作戦結果の軸に沿った」ものではなく、戦術的に容易に突き抜けることのできる敵戦線の中の地点を狙ったものであることを意味していた[9]。攻撃者の仕事をさらに複雑にしたのは、ドイツ統一戦争以降、軍隊がより弾力性を高めたことであった。兵器の致死性は増加し続け、その結果、塹壕陣地使用の拡大と戦場での軍隊による分散が進み、防御側に優位性を与えることになった。加えて、輸送と補給手段の改善が進み、戦場に継続的に留まるための軍隊の能力を容易にした[10]。
また、軍隊が作戦上の成功を収めることがますます困難になった要因もあった。敵の翼則を求めようとし続けたために、軍隊の規模は拡大を続けた。しかし、第一次世界大戦までには、軍隊の水平展開は極端な状態に達しており、軍隊の水平展開は、連続した戦線の問題に直接向き合う戦略に直面していた。攻撃する軍隊は、突破口を得るために敵の防御正面を突破しなければならなかった。そうでなければ、防御側は退却し、単に再編成して、防御を再度確立するか、反撃するかのいずれかを行った[11]。
ソビエトの作戦術の開発・発展
Robert M. Epsteinが支持しているように、作戦術がナポレオンによって最初に使用されたか、あるいはJames Schneiderが主張しているように、米国の南北戦争で使用されたかどうかについては、議論の余地がある[12]。しかし、作戦術の理論を開発したのは、戦間期(第一次世界大戦と第二次世界大戦の間)のソビエト軍の理論家であったことは広く認められている。彼らはロシア革命に触発され、第一次世界大戦の消耗的闘争の経験と、軍の正当性に疑義が持たれるロシア内戦(1917-1922)とポーランド・ソビエト戦争(1919-1921)のより機動中心の戦役によって、導かれたものである[13]。
この戦いの性質を大胆に検証する追加的な触媒は、ソビエト連邦が周囲の資本主義諸国からの攻撃の脅威にさらされているという、戦間期のソビエト連邦指導部の間で繰り返される信念であった。最近の戦役、兵器開発の傾向、および部隊の組織構造の要求を調べることによって、ソビエト理論家は、陣地戦の膠着状態を解消し、戦場における運動性(mobility)と機動性(maneuver)を回復しようと求めた。ソビエト連邦の後の元帥Mikhail Tukhachevskyの後援によって導かれたソビエト理論家たちは、単一の決定的な殲滅会戦を通じて勝利を得ることに重点を置いて拒否した。彼らの研究は、各戦略的目標(strategic objectives)の達成は連続する作戦を積み上げた作戦の成功によってのみ得られることを認識した戦いの新しいコンセプト(conception)を導いた。これは、ソビエトの理論家を戦略と戦術の交差点に焦点を当て、軍事科学の新しい領域、すなわち作戦術(operativnoe iskusstvo)の創造に導いた[14]。
ロシア革命戦争(Russian Civil War)の後、ソビエトは当初伝統的に受け入れられていた戦争を戦略と戦術の領域に分ける大まかに戦いを見ることを続けていた。しかし、現代戦争の複雑さを記述するために、「大戦術(grand tactics)」や「戦略の下位域(lower strategy)」などの新しい、病的な、または未定義の用語が労農赤軍(RKKA)軍事アカデミーの学部によって使用された。A. A. Svechinは、1923年と1924年にアカデミーで与えられた戦略に関する一連の講義で、作戦術と呼ばれる戦争の中間的な範囲を提示した[15]。
アレクサンドル・アンドレーエヴィチ・スヴェチン将軍、ロシア帝国陸軍、1923年。 (写真提供:ウィキメディア・コモンズ) |
Svechinは、作戦術を「戦役の特定の期間に最終的なものとして設定された、共通到達目標の達成に向けられた軍事行動の戦域の特定の部分における機動と会戦の総体のもの[16]」と定義した。このようにして、戦略は作戦術の遂行のためのパラメーターを設定し、作戦術は戦略と戦術の間のコンセプト的な橋渡しを務める。別の言い方をすると、「会戦作戦の手段である。戦術は作戦術の素材である。作戦は戦略の手段であり、作戦術は戦略の素材である[17]」 各指揮官は戦略的到達目標(strategic goal)を達成するためにデザインされた作戦範囲に戦術的到達目標を結びつけるために作戦術を使用することになる[18]。
1920年代半ば、戦略省副大臣、N. E. Varfolomeevは、Svechinの研究を基盤にした。Varfolomeevは戦争全体の戦争組織の枠組みとして戦略を使用し、戦術は交戦における軍隊の適用として使用し、作戦術は異なる戦術的行動を統一した作戦に一体化するものとして機能させた。Varfolomeevは、現代作戦を、「共通の目的を達成するために寄稿される戦域の軍事行動の与えられた分野における機動と貝瀬院の全体であり、戦役の一定期間に最終のものとして設定されるものである。作戦の遂行は戦術の問題ではない。これは多くが作戦術になる[19]」と説明した。この枠組みの中の研究で、Varfolomeevは敵を殲滅させるための縦深の追撃の適用を研究した[20]。
Varfolomeevは、単一作戦の方針では敵の殲滅を達成することは不可能であり、敵の縦深への複数の連続する作戦の実行が求められると理論化した。連続的な縦深作戦を成功させるには、「一連の作戦全体のジグザグが、互いに連続して開発され、共通の最終目的によって論理的に接続され、繋がれている[21]」必要があった。このことは、突破(breakthrough)は、敵が一貫性ある防御を再確立するのを防ぐために攻勢のテンポを維持するための予備の使用を伴った縦深への追撃を一体化しなければならないことを意味した。さらに、Varfolomeevは、作戦的な疲労との戦いにおいて、作戦術への兵站の決定的な重要性への注意を喚起した。以来、ソビエト理論家は、作戦術の実践的な理論を公式化するために、どのように縦深での作戦を達成するかについて、より詳細に追求することになる[22]。
赤軍の作戦参謀長であるVladimir Triandafillovは、作戦術の実用的な理論を開発する任務を与えられた。TriandafillovはMikhail Tukhachevskyの知的な擁護者であった。1922年、Tukhachevskyは労農赤軍(RKKA)軍事アカデミーの長官に任命され、最近締結されたロシア革命戦争の作戦について講義した。1923年2月、Mikhail Tukhachevskyは、以下の様に述べている。
現代戦では戦いの前線が広がり、敵の軍隊を一撃で破壊することは不可能であるため、我々は敵の方が自分よりもコストをかけさせる作戦によって徐々にやる義務がある。我々が敵を追撃することがより速くなればなるほど、会戦後に敵が後退して組織する時間が少なくなり、敵軍隊の崩壊を早め、敵を不可能にするか、全てを困難にし、敵を他の一般的な交戦に持ち込むことになる。要するに、論理原則に基づいて実行され、中断のない追求によって繋がりのある一連の破壊的な作戦は、狭い正面で戦った過去の軍隊の交戦の形態であった決定的な会戦に置き換わる可能性がある[23]。
Tukhachevskyへの師事の下で、Triandafillovの、1929年の本「Modern Armiesの作戦の本質」では、Varfolomeevによって概説されてきた連続的な縦深作戦の理論の詳細で満たされている[24]。TriandafillovとTukhachevskyが1929年の暫定的な赤軍暫定綱領(PU-29)の最初の公式声明を書いたとき、ソビエトの作戦術は、すぐに正式に祀られた。これらの規則は、赤軍が、敵の防御の全縦深に亘って「縦深会戦」を行うことによって、作戦の遂行間に胚性の機械化プログラムの将来の成果をどのように採用するかを導いた[25]。
Triandafillovが飛行機の墜落で1931年に死亡した後、Tukhachevskyは、「縦深会戦の組織」に関する一時的な指示であるPU-33で縦深会戦の考えを展開し続けた。Tukhachevskyは、いくつかの連続した作戦を一つにすること通じて、途切れることのない縦深作戦を大胆に作り出そうとした。最初の作戦とその後の作戦を空間的にも時間的にも拡張され戦役と一致した単一の連続した作戦の中に繋げることを通じて、戦役と作戦が一つのものになる[26]。
戦略的な目的に仕えるように縦深に適合させた戦役のように拡大させた単一のものに一連の作戦を一体化させることは、ソビエトの軍事思想の論理的帰結であり、また、ますます洗練された軍事的手段-自動化され機械化された部隊、改良された戦車、軍用航空機-を装備することによって与えられた機会である。Mikhail Tukhachevskyの「縦深作戦の理論は、作戦術の開発・発展における質的な飛躍を表し、第一次世界大戦の陣地戦の行き詰まりからの完全な脱出に手を差し伸べた[27]」と述べた。赤軍ドクトリンPU-36の次の版である暫定的な赤軍の野外規則(1936年)は縦深作戦のコンセプトをさらに発展させ、その実行のための詳細な指示を提供した[28]。
Georgii Issersonは、彼の著書「作戦術の進化」でソビエトの作戦術をさらに進歩させた。Issersonは1929年にFrunze軍事アカデミーの教官に就任し、1932年の彼の著書の1936年の「1920年代の軍事思考の黄金時代と1930年代の最高峰への到達」に改訂された。IssersonはPU-36でTukhachevskyとも協力した[29]。
Issersonは、「作戦は戦略の兵器であり、戦略は政治の兵器である[30]」と主張した。彼は、作戦術の主な課題は「敵を敗北をもたらすための戦線に沿ったそして十便にわたる意図的で逐次に調整された高度な効果的なシステムを作り出す[31]」ような戦術的な行動を結びつけることであると主張した。戦術的な行動はそれ自身が目的ではなく、より大きな目的に遠回りしながら辿り着く道程であるに過ぎない。彼は、作戦上の成功の獲得につながっていない戦術的行動を「役に立たない事実」として却下した[32]。
著書「作戦術の進化」の中で、IssersonはTukhachevskyの縦深作戦理論を広げていった。Issersonによると、ソビエト軍の作戦術が直面している問題は、攻勢は敵の防御全体を通して作戦縦深に敵を打破らなければならない事だった。それと同時に、攻勢の力が防御縦深に中に進んでいくにつれ消滅することを意味した。一連の連続的な作戦を主張する代わりに、防御の肥大化は現代の攻勢の取組みが同じ時間や同じ場所で起きることは無いことを意味するために、現代の作戦は一連の連続した作戦であると主張した。彼はさらに、「空間的に時間的に空、地上、海において一体化された連続する縦深戦役のシステム」は現代戦争の構成要素である一方で、現代の戦役は連続する一連の縦深作戦で構成されていることをさらに推測(extrapolate)した[33]。
ソビエトがスペイン内戦(1936年-1939年)から得た教訓は、ソビエトの縦深作戦理論による作戦術の適用にいくつかの疑問を投げかけた。しかし、作戦術のソビエト理論への致命的な打撃は、Triandafillovの「現代軍隊の作戦の本質」の最終版が登場した1937年に訪れた。それは、ソビエトの指導者であるヨーゼフ・スターリンが、「革新的軍事理論家の作物のクリームが浄化され、殺された[34]」赤軍将校団の粛清を始めた時であった。人民の裏切り者や人民の敵とレッテルを張られたTukhachevskyは、1937年に処刑され、翌年Svechinが続くことになる。Varfolomeevは刑務所で亡くなった。比較すると、Issersonは幸運だった。彼は1941年に逮捕され、今後14年間労働収容所で過ごした[35]。
作戦術の理論家が抹殺されただけでなく、彼らの考えは政治的イデオロギー的な理由からも疑わしいものとなった。粛清を生き延びた将校は、Tukhachevskyと彼の仲間によって開発された作戦理論を公然と利用することができないか、あるいはその意思を奪われた。赤軍は、軍事科学のスターリン化によって凍結され、戦略的な文脈から分離され、理論的根拠から切り離された、適用のための作戦理論と作戦ドクトリンを保有していた[36]。
しかし、これらのソビエト理論家が粛清される前に、彼らはソビエトの軍事理論と軍事ドクトリンの中に彼らの成果を託すことができた。第二次世界大戦中の赤軍の軍事作戦は、縦深作戦の理論への言及を避けたが、これらの軍事思想家の成果は、明らかに、ソビエトの活動を支配する理論的なテンプレートを提供した。戦争の早い段階で、粛清の長引く効果、Stalinのお粗末な戦略的リーダーシップ、そして部隊構造の変化は、彼らの考えの適用の障害になった。それにもかかわらず、モスクワ正面のソビエトの1941年の冬の反撃は、Triandafillovの連続作戦モデルと不気味なくらい似ていた。戦争が進行し、ソヴィエトの指揮官が大きな機械化された編成を扱う際により能力を発揮するようになったとき、ソビエトの作戦術は、TukhachevskyとIssersonがPU-36で概説した縦深作戦のコンセプトに戻った。戦争の終わりまでに、ソビエトの作戦術は、戦前の理論家が約束した素晴らしい成功を達成した[37]。
戦後になって、ソビエトの軍事思想は核戦争の要求に焦点が当てられた。1960年代中頃には、脱スターリン化に続いて、縦深作戦が復活し、戦間期に粛清された理論家の多くが名誉回復された。しかし、「グラスノスチとペレストロイカまで、1989年にV. N. Lobov大佐が指摘したその期間の軍事理論への貢献への感謝は、ソビエト軍部隊内でさえほとんど知られておらず、評価されていなかった[38]。それらの預言者達は自国内では名誉を得ていなかったが、彼らの成果は米陸軍で目の肥えた聴衆を見つけた。米陸軍高等軍事学校(SAMS)のある教授は、「作戦術に関する理論的著作の単一の最も首尾一貫した核心は依然としてソビエトの著者の間で見つかっている」と述べている[39]。Tukhachevskyと彼と考えを同じにする者の成果はべとなく戦争後の米陸軍のドクトリン上の再生の基礎になった。それは、米陸軍のドクトリンへの作戦術の組み込みと縦深作戦と恐ろしいくらいに似ているエアランド・バトル(AirLand Battle)のドクトリンの需要を含んでいる[40]。
米陸軍の作戦術の受け入れ
米陸軍は、戦間期のソビエト軍事理論の進歩を漠然と認識していた。しかし、米陸軍は特に作戦術のコンセプトについて彼らを軽蔑視していた。それは、「単なる主張に過ぎず内容や利点の無い戦術と戦略の間に課された人工的な作り物である[41]」として退け、そして、「実用性が限られており、その有用性は、第二次世界大戦の戦争の時期には高かったかもしれないが、それでもそれは疑問である[42]」と判断された。後から考えれば、これらの宣言はTukhachevskyとその同調者に洞察を求めて、米陸軍は1980年代に正式に作戦術を取り入れまたことは皮肉に見える[43]。
ベトナム戦争の後、米陸軍は、ソビエト指導のワルシャワ条約軍からNATOを防衛する責任を再確認した。この主張の変化は、ヨーロッパでの戦争を再び主張したことに適したドクトリンを定式化しようとする試みにつながった。1976年、米陸軍訓練ドクトリン・コマンドは、フィールドマニュアル(FM 100-5)でヨーロッパ内でソビエトと戦う方法-アクティブ・ディフェンス(Active Defense)-について、ベトナム戦後の最初のビジョンを発表した。この高度な戦術的ドクトリンは、ソビエトの後続梯隊を無傷のままにして部隊対部隊の直接火力交戦によりソビエト第1梯隊の殲滅を通じて達成された非協調的な戦術的成果の蓄積を通じて勝利を達成することを追求するものであった。 アクティブ・ディフェンス(Active Defense)は本質的に防衛的かつ反応的な洗練されていないドクトリンであり、米陸軍はそれを拒絶した。同様に重要なことに、アクティブ・ディフェンス(Active Defense)は、米陸軍の戦術的近視を強化し、戦略と戦術の間の断絶拡大の一因となった[44]。
1979年6月、Edward C. “Shy” Meyer米陸軍参謀総長は、米陸軍訓練ドクトリン・コマンドの司令官にDonn Starry米陸軍大将に、FM 100-5を改正するよう指示した。新任の米陸軍参謀長は、ほぼ排他的に中隊次元に焦点を当てたアクティブ・ディフェンス(Active Defense)とは異なる軍団や戦域軍ののような高い次元の司令部にも対応できる旅団次元に焦点を置いたドクトリンを求めた。この命令は、最終的に作戦術に関する米陸軍の承認を得た。Meyer参謀総長は、米陸軍の作戦コンセプトが現在のアクティブ・ディフェンス(Active Defense)のドクトリンよりも幅広い適用性を保持することを望んでいた。彼は、1980年2月に発行された白書でこれを表現した。その中で、彼は米陸軍がヨーロッパを防衛する重要な仕事を完遂するための部隊の能力を低下させることなくNATOパラダイム外で発生した脅威に対処できなければならないとの考えを示した[45]。
2人の米陸軍中堅の将校、Huba Wass de Czege米陸軍中佐、L. Don Holder売陸軍中佐は、エアランド・バトル(AirLand Battle)の執筆と米陸軍による作戦術の受け入れにおいて重要な役割を果たした。Holder中佐は、以前は米国軍事アカデミーで歴史を教えていた機甲将校だった。彼は砂漠の嵐作戦間に第2装甲騎兵連隊を指揮し、最終的に米陸軍中将に昇り詰めた。米陸軍の最高戦術家の1人として考えられているHolder中佐の現実的な世界観は、Wass de Czegeのロマンチックな考え方に対する良き対抗者だった。
Huba Wass de Czegeは、ハンガリーの著名な小説家の元で生まれた。彼の父親は1956年に家族と一緒に米国に逃れなければならなかった。ハーバード大で教育を受けた歩兵将校、Wass de Czegeは、米陸軍の当時のドクトリンを非常に批判的に受け入れていた。退役した米空軍大佐John Boydを米陸軍指揮参謀大学で講義するために招待することを進めた。Wass de Czegeがレヴェンワースの執筆チームのリーダーになった。これらの2人の将校は、ドクトリンの開発に他の貢献者の影に隠れ、エアランド・バトル(AirLand Battle)の両方のドラフトに大きな役割を果たした[46]。
米陸軍によって作戦術が正式に受け入れるための第一歩は、米陸軍ドクトリンに戦争の作戦的次元を含めることであった。これは当初、1980年の冬に国際安全保障(International Security)に掲載された記事の中でEdward Luttwakによって提案された。米陸軍戦争大学(Army War College)は、エアランド・バトル(AirLand Battle)に戦争の作戦的次元を含めるもう一つの提案者だった。1973年にそれを打ち倒した後、ドイツ連邦軍(Bundeswehr)もまた、彼らのドクトリンに作戦的次元を含めることを審議していた。Starry司令官はもともとこのコンセプトの除外を保証していた。執筆チームは、米陸軍が大体の内容を理解するには、それが理論構築の進歩があまりにも進んでいると信じていた。しかし、Starry司令官の後継者であるGlenn K. Otisの要請を受けて、戦争の作戦的次元が最終的に組み込まれた。この決定は、新しいドクトリンがアクティブ・ディフェンス(Active Defense)が特徴とする狭い戦術的な焦点を持たず、勝利を達成するために作戦術の本質を強調するためにエアランド・バトル(AirLand Battle)の第2版の条件を設定することを確実にした[47]。
フランス、ソンムのアルバートの会戦中、1916年7月1日のボーモント・ハメルへの攻撃の前に連絡豪で銃に銃剣を固定している第1大隊Lancashire Fusiliersの兵士。彼らはパックの代わりに雑嚢とともに「戦闘命令」を身につけており、混ぜ糧食を含んだ下で丸められたシートがベルトに縛られている。前景(右)の将校は、目立たないように下の階級の制服を着ている。 |
FM 100-5の1982年版は、米国の軍事思想に戦争の作戦的次元を導入した。米陸軍のドクトリンは、戦略的、作戦的、戦術的という3つの戦争の次元を認識した。各戦略的到達目標(strategic goals)は主に国家の政治的リーダーシップによって決定された。戦術は以前は米陸軍のドクトリンの独占的な焦点的事項だったが、今や、下位のマニュアルが戦術的事項に関心が払われる一方で米陸軍の基本ドクトリン上のマニュアルは作戦的次元を重視している。典型的には戦術的次元と戦略的次元の間で作戦的戦いが行われ、従来の戦役では大規模な編成(軍団や軍)の適用を取り扱っている[48]。
米国陸軍の時代には、軍団は自立した独立した作戦が可能なコマンドの最も小さな階層組織だった。典型的には2〜5師団を含む軍団は、独自の兵站手段と長期的な戦役を実施するために必要な能力の冗長性を保有していた。米陸軍と米空軍アセットの調整が軍団で発生したため、エアランド・バトル(AirLand Battle)は作戦的次元で戦った。新しいマニュアルの残りの素材のように、作戦的次元の戦いは戦争の原則に注意を払っていた。しかし、これらの時代を超越した原則の適用は、関係する司令部の階層に依存して変化したと著者は指摘した。主に戦術的な関与に関心を持つ代わりに、軍団の指揮官は、各戦略的目標(strategic objectives)を推進した作戦を計画し、指示しなければならなかった。エアランド・バトル(AirLand Battle)は戦役と呼ばれるこれらの作戦を米陸軍のドクトリンに導入した。作戦的次元の指揮官は各戦略的到達目標(strategic goals)を達成することに関心があったため、敵と戦う場所、時期、方法、さらには敵と戦うことについての決定は驚異的に重要になった[49]。
公式の米陸軍ドクトリンにおける作戦的戦い(Operational Warfare)の導入は、指揮参謀大学と米陸軍戦争大学の両方で行われた。この理論的構成で将校団を教育するために、米陸軍は1983年に高度軍事学校(SAMS)を設立した。SAMSを考え出したWass de Czegeが最初のディレクターを務めた。(エアランド・バトル(AirLand Battle)執筆の主要人物であるHolderは、後に第3のディレクターになる) 1986年のエアランド・バトル(AirLand Battle)改訂の第一著者であるRichard Sinnreich米陸軍中佐は、SAMSの2番目のディレクターであった。SAMSの将校は、クラウゼヴィッツ主義の理論のプリズムを通して戦役を分析するのにかなりの時間を費やした。ソビエトの軍事史家、David Glantzソビエト陸軍大佐は、将校たちに対して第二次世界大戦の東部戦線のセミナーを行った。ソビエト連邦軍のMikhail Tukhachevsky元帥とVladimir Triandafillovの著作は、作戦術の研究の重要な部分の基礎を提供した。米陸軍に軍団と軍団以上の指揮階層の適用についての訓練を将校団に提供することに加えて、1986年のエアランド・バトル(AirLand Battle)の改訂版は、SAMSに書かれた[50]。
エアランド・バトル(AirLand Battle)の1986年版は、より高度な作戦術のコンセプトへ戦争の次元の作戦的な部分を洗練し、進化させた。エアランド・バトル(AirLand Battle)の本来の記述では米陸軍への戦争の作戦的次元が導入されましたが、そのコンセプトを適切に説明することはできていなかった。米陸軍は、この短所を是正するために、1986年のエアランド・バトル(AirLand Battle)の改訂で大部分を修正した。そうすることで、米陸軍は他の軍種や統合参謀の戦闘に位置していたが、彼らは作戦的次元の指揮官に与えられた幅広い方向性に関わらず米陸軍をリードすることを余儀なくされた[51]。
1984年9月、米陸軍訓練ドクトリン・コマンドの新司令官であるWilliam R. Richardson米陸軍大将は、Wass de Czegeに、エアランド・バトル(AirLand Battle)に改正が加わると伝えた。マニュアルは低強度の紛争に大きな注意を払い、指揮官に与えられる余裕を広げたが、この版では縦深作戦の基本的なドクトリンを離れ、道徳的な要素に触れずに作戦的次元の戦いにおける米陸軍の立場を洗練することに重点を置いた。1986年のFM 100-5は一般に、米軍によって提示された最も鮮明で明快なドクトリンとみなされているように、米陸軍内および防衛評論家によって評価されている。作戦的な戦いの議論における変化の中で、Wass de Czegeは、軍団指揮官が戦域の優先順位を乏しい航空アセットの配置で決定することを確実に理解しようと求めた。戦争の作戦的次元の正式な認識は、作戦術の包容の中に発展していった。作戦術は、作戦的次元での戦争の遂行がその次元の指揮官からより大きな創造性を求められることを認めて、以前のマニュアルを拡張した。この創造的なプロセスは、指揮官が各戦略的到達目標(strategic goals)を戦術的目標(tactical objectives)に転換した戦役の計画策定を行う行為の際に必要だった。このように、作戦術は競合する戦略的要求と戦術的要求を一つにする求心力だった。新しいFM 100-5は、複数の作戦と戦役の遂行にも優れた対処法を与えた。興味深いことに、戦役と戦域についての米国の説明は、ソビエトの定義をほぼ正確に翻訳したものであった。最後に、湾岸戦争の脚本につながることになる枝分かれしたコンセプトや続編などのコンセプトが、米陸軍の計画策定プロセスに導入された[52]。
歴史家がイスラエルの戦争がエアランド・バトル(AirLand Battle)に与えた影響(Yom Kippur戦争の分析に費やされた量)やドイツ軍(NATO同盟の文脈上のドイツ連邦軍との緊密な協力関係に沿った第二次世界大戦におけるドイツ国防軍の能力に多くの将校が魅力を感じていた)に、注意を払っているにもかかわらず、エアランド・バトル(AirLand Battle)に対する最も深遠な影響はソビエトの軍事理論にあったことは見過ごされがちである。1970年代には、米空軍によるソビエト文献の翻訳が数多く出版されたことにより、米陸軍内でのソビエト軍事思想の研究が増加した。もう一つの重要な影響は、Richard SimpkinやJohn Ericksonなどの学者によるソビエト軍のJohn Ericksonの縦深作戦理論の学術調査であった。洗練されたソビエトのドクトリン上の考えがより大きく暴露されたことは、米国陸軍のドクトリンのソビエト化につながった。エアランド・バトル(AirLand Battle)は縦深作戦と非常によく似ていた。1930年代に開発されたTukhachevskyのドクトリンは、敵の機動システムの崩壊を招き、敗戦を確実にするために、砲撃、特に航空支援と協調した自己完結型の高度に機動力のある部隊を使用して、戦場の奥深くまで敵を攻撃することを可能にすることを提案していた。エアランド・バトル(AirLand Battle)は、ソビエトの作戦コンセプトの研究だけでなく、米陸軍によってほぼ全体的な採用を反映している[53]。
前任者とは違って、将校団はエアランド・バトル(AirLand Battle)を受け入れ、米陸軍の新たな基本ドクトリンが戦場での勝利をもたらすと信じていた。エアランド・バトル(AirLand Battle)では、米陸軍は、自部隊の前線に沿った狭い領土内での戦闘によって勝利が達成されるとの信念を放棄した。アクティブ・ディフェンス(Active Defense)で最も過激に表現されたこの線形の会戦は、はるかに洗練された縦深のコンセプトを用いたドクトリンに道を譲った。この新しい米国の縦深の理解は、NATOの政治的な制約のために戦術的な利益のための空間を相手に譲り渡すことができなくなったことと、ソビエトの敵対者の梯隊化された本質の詳細な調査から生まれた。これらの要因により、エアランド・バトル(AirLand Battle)では、アクティブ・ディフェンス(Active Defense)の近接戦についての近視眼的な焦点を放棄するだけでなく、敵の後続の梯隊をターゲッティングして必要な縦深を得ることができた。この縦深の再コンセプト化は、縦深作戦のソビエト理論の採用と作戦術の重要性の認識につながった[54]。
現代の議論
作戦術は、依然として米陸軍のドクトリンの中心的な構成要素である。しかし、作戦術は、1986年のFM 100-5の発表以来、変化が続き、武力紛争や技術の変化に対応して進化してきた。作戦術が公式のドクトリンに受け入れられたにもかかわらず、米国の戦争を有利な戦略的成果で終わらせることができないことを考えると、このコンセプトには批判が高まってきた[55]。
批判する者は、米陸軍が実施している現代的な作戦術は、「戦略から歓迎されない干渉から解放された指揮と作戦の独自の次元で役に立つ独立した戦争の次元[56]」を創出することを通じて戦略を脇に追いやっていると主張している。彼らは、作戦術が政治と戦略のギャップを広げ、政治的首脳部を「戦略的スポンサー[57]」にしか過ぎないものとして重要視していないという過ちを犯していると主張した。対照的に、現代的な作戦術は、リスクをうまく測り、ある行動が戦略的目標(strategic objective)に適しているかどうかを判断するために、全体的な政策目的、敵、地形などの適用可能な戦略的な文脈を理解することの重要性を強調している。作戦術が戦略を消費し、政治的首脳部を彼らのために遂行されている戦争から疎遠にしているという訴えに対する遥かに単純な答えは、最近の戦争では、貧しい作戦術家と才能がないかまたは無益な政治的首脳部がいたというだけの事である[58]。
作戦術に関する批判の一つの歪みは、それを戦争の作戦的次元と結びつけている。作戦術が「戦略と戦術の間の誤った不必要な繋がり」であると主張するために、この用語は互換的に使用されることが多い[59]。「作戦術」と「戦争の作戦的次元」という用語を混乱していることで、そのような批判は彼らの両方のコンセプトの理解が足りないことを示している。戦争の作戦的次元は、「戦術をうまく利用する必要性を奇妙に表現する」という意味ではない[60]。代わりに、戦争の作戦的次元は、「欧州の分散した作戦における大規模な作戦上の耐久性のある体制をとる場合の特別な問題[61]」に対処するための手段という欧州特有の文脈の中で開発されたものである。現代の作戦術の理論家は、戦争の作戦的次元が作戦術の適切な適用を遅らせると主張している。これは、戦争の作戦的次元は、すべての問題を対応する司令部と容易に組み合わせることができるという固定化された階層構造を優先した、政策、戦略、作戦術、および戦術の間の相互関係を無視しているからである[62]。
実際には、作戦術は特定の指揮の次元に結びついていない。代わりに、作戦術は、戦略的到達目標(strategic goal)を達成するための時間、空間、目的における戦術的行動の配列を通じて、意図的に戦略と戦術を結びつけるタスクに関するものである。この問題は、1つの指揮階層に限定されず、文脈によってさまざまに依存するものだである[63]。
他のコメンテーターは、作戦術は、ソビエトが直面した大陸の環境の中で機械化された大規模な戦争の問題に対する答えを起源とするコンセプトのために、「現代の作戦環境の要求には不十分である」と主張する[64]。これらの批評家は、作戦術(すなわち、縦深作戦)を適用するためのソビエト理論が対反乱や低強度紛争のような現代的な課題に明らかに対処していないため、作戦術はもはや有用な理論構築物ではないと主張している。しかし、「純粋に抽象的な意味で、具体的な戦術的行動は作戦術にとって重要ではなく、戦略的目標(strategic objective)を追求するために時間、空間、目的を整理しているに過ぎない[65]」 あるいはIssersonが「準備が整った計画やレシピの一種として作戦術を教えるのは不合理である。作戦術の非常に本質的なものは、具体的な状況に合わせて慎重に選択すべき方法や形式の自由を前提としている[66]」 批評家は、作戦術を時代遅れにしていると指摘している紛争の形式は依然として戦術的行動を順序付けることを指揮官の課題であることを無視しており、第二次世界大戦以前にソビエトが作戦術を開発したのと同じタスクを、戦略的目標(strategic objective)を追求する上で、時間的および空間的にどのように分散しても問題はない[67]。
米国の作戦術のコンセプトを批判する人々の多くは、英国やオーストラリアから来ている。彼らは、彼らの特定の戦略的文脈に対する作戦術の有用性に関する要点を持っているかもしれない。米国、あるいは米陸軍だけでも、これらの国々を大幅に縮小した規模の軍事力を使用している。これらのような小規模の戦力にとっては紛争への完全な関与は大隊以上ではないかもしれないが、彼らの戦略と戦役は非常に同じであるかもしれないと考えられる。このような規模の違いと関与の複雑性は、作戦術のようなコンセプトがグローバル・コミュニケーションと戦略的伍長(strategic corporals)の時代に関係するかどうかに挑戦する際に、そのような批評が存在する文脈を理解することも重要である[68]。
このような作戦術の批判にもかかわらず、このコンセプトは主要国軍の軍事ドクトリンにしっかりと組み込まれている。軍事思想における革命において重要な役割を果たした戦間期のソビエト軍事理論家たち、Svechin大将、G. Isserson、Tukhachevskii元帥は、米陸軍のような部隊によって著作権侵害を長期間見過ごすことさえあっても、一度は感動を与え喜ばれた[69]。戦間期のソビエト連邦におけるこの理論構築物の発展以来、その後の理論家は、技術の変化に対応して作戦術を適応させ、彼らの特定の戦略的文脈に適合させることによって彼らの理論を積み上げてきた。作戦術は、指揮官が各戦略的目標(strategic objectives)を達成することを助ける貴重なツールを提供するため、この適応が継続されている限り、その有用性を保持し続けるであろう。
ノート
[1] James Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, by Georgii Samoilovich Isserson, trans. Bruce Menning (Fort Leavenworth, KS: Combat Studies Institute Press, 2013), XII; Thomas Bruscino, “The Theory of Operational Art and Unified Land Operations,” School of Advanced Military Studies Theoretical Paper, Command and General Staff College, Fort Leavenworth, KS, Summer 2012), 21.
[2] Richard Swain, “Filling the Void: The Operational Art and the U.S. Army,” in The Operational Art: Developments in Theories of War, ed. B. J. C. McKercher and Michael Hennessy (Westport, CT: Praeger, 1996), 166; Tom Clancy with Gen. Fred Franks, Into the Storm: A Study in Command (New York: Berkley, 2004), 112 and 139; Shimon Naveh, In Pursuit of Military Excellence: The Evolution of Operational Theory (Portland, OR: Frank Cass, 1997), 8 and 10; Ingo Trauschweizer, The Cold War US Army: Building Deterrence for Limited War (Lawrence, KS: University Press of Kansas, 2008), 222.
[3] Isserson, The Evolution of Operational Art, 18–21; Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 7; for a fuller discussion of the Austro-Prussian War, please see Geoffrey Wawro, The Austro-Prussian War: Austria’s War with Prussia and Italy in 1866 (New York: Cambridge University Press, 1996).
[4] Isserson, The Evolution of Operational Art, 18.
[5] Ibid., 18–20.
[6] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 7; Isserson, The Evolution of Operational Art, 19, 21, and 23.
[7] James Schneider, introduction to The Nature of the Operations of Modern Armies, by V. K. Triandafillov, trans. William A. Burhans (Portland, OR: Frank Cass, 1994), XXXVI–XXXVII.
[8] John Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine: The Significance of Operational Art and the Emergence of Deep Battle,” in The Origins of Contemporary Doctrine, ed. John Gooch (Camberley, UK: Strategic and Combat Studies Institute, 1997), 81; Isserson, The Evolution of Operational Art, 19 and 23.
[9] Ibid., 7–8.
[10] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 11–12; Isserson, The Evolution of Operational Art, 7–8.
[11] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 11–12; Isserson, The Evolution of Operational Art, 29–30; Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, VIII.
[12] Robert Epstein, Napoleon’s Last Victory and the Emergence of Modern War (Lawrence, KS: University Press of Kansas, 1994); James Schneider, The Structure of Strategic Revolution: Total War and the Roots of the Soviet Warfare State (Novato, CA: Presido, 1994).
[13] David Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s” (paper presented at the American Military Institute Conference, 30–31 March 1990), 2 and 4, accessed 31 July 2018, http://www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a232954.pdf; Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, IX.
[14] Jacob Kipp, “Soviet Military Doctrine and the Origins of Operational Art, 1917-1936,” in Soviet Doctrine from Lenin to Gorbachev, ed. William C. Frank Jr. and Philip S. Gillette (Westport, CT: Greenwood, 1992), 108; Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 1 and 2; David Glantz, “The Nature of Soviet Operational Art,” Parameters 15, no. 1 (Spring 1985): 4–5; Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, VIII; Jacob Kipp, “Mass, Mobility, and the Red Army’s Road to Operational Art 1918-1936” (report, Soviet Army Studies Office, Combined Arms Center, Fort Leavenworth, KS, July 1987), 17, accessed 31 July 2018, http://www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a195053.pdf.
[15] Jacob Kipp, foreword to The Nature of the Operations of Modern Armies, XIV; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 88.
[16] Svechin, quoted in Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 108.
[17] Ibid.
[18] Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 88 and 108; Kipp, foreword to The Nature of the Operations of Modern Armies, XV; Aleksandr A. Svechin, Strategy, trans. Kent D. Lee (Minneapolis: East View, 1999), 68; Glantz, “The Nature of Soviet Operational Art,” 5.
[19] Varfolomeev, quoted in Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 88.
[20] Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, XIII–XIV; Kipp, “Mass, Mobility, and the Red Army’s Road to Operational Art 1918-1936”, 18; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 88.
[21] Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 112.
[22] Kipp, “Mass, Mobility, and the Red Army’s Road to Operational Art 1918-1936,” 19; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 112.
[23] Tukhachevsky quoted in Schneider, introduction to The Nature of the Operations of Modern Armies, XXX.
[24] Schneider, introduction to The Nature of the Operations of Modern Armies, XXX; James Schneider, “V. K. Triandafilov, Military Theorist,” Journal of Soviet Military Studies 1, no. 3 (1988): 289–90; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 113; Kipp, “Mass, Mobility, and the Red Army’s Road to Operational Art 1918-1936,” 17 and 20; Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine,” 88; Ammon Sella, “Red Army Doctrine and Training on the Eve of the Second World War,” Soviet Studies 27, no. 2 (April 1975): 246.
[25] Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 5 and 11–12; Glantz, “The Nature of Soviet Operational Art,” 6; Sella, “Red Army Doctrine and Training,” 247–48; Kipp, “Mass, Mobility, and the Red Army’s Road to Operational Art 1918-1936,” 20; Richard Harrison, The Russian Way of War: Operational Art, 1904-1940 (Lawrence, KS: University Press of Kansas, 2001), 186–94.
[26] Schneider, “V. K. Triandafilov,” 304; Schneider, introduction to The Nature of the Operations of Modern Armies, XLIV; Sella, “Red Army Doctrine and Training,” 250; Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, XIV–XVI; Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine,” 88; James Schneider, “Theoretical Implications of Operational Art,” in On Operational Art, ed. Clayton Newell (Washington, DC: U.S. Army Center of Military History, 1994), 26–27; Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 5; Glantz, “The Nature of Soviet Operational Art,” 6; Walter Jacobs, “Tukhachevsky Rediscovered,” Military Review 44, no. 8 (August 1964): 67.
[27] Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 12.
[28] Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine,” 92; Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 12; Harrison, The Russian Way of War, 194–217.
[29] Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, XIII.
[30] Isserson, The Evolution of Operational Art, 12.
[31] Ibid., 26.
[32] Ibid., 5, 12, 26, 35, 36, and 39.
[33] Lt. Col. Thomas E. Hanson, foreword to The Evolution of Operational Art, III; Isserson, The Evolution of Operational Art, 48 and 66; Schneider, introduction to The Evolution of Operational Art, XIII, XIV, XVI, XVIII, XIX, XX, and XXI; Richard Harrison, Architect of Soviet Victory in World War II: The Life and Theories of G. S. Isserson (Jefferson, NC: McFarLand, 2010), 114–17.
[34] Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 20.
[35] Glantz, “The Nature of Soviet Operational Art,” 6; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 119; Kipp, foreword to The Nature of the Operations of Modern Armies, XXI.
[36] Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 20; Glantz, “The Nature of Soviet Operational Art,” 7; Hanson, foreword to The Evolution of Operational Art, III; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 119; Kipp, foreword to The Nature of the Operations of Modern Armies, XXI.
[37] Glantz, “Soviet Operational Art and Tactics in the 1930s,” 27; Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine,” 81; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 119; Bruce Menning, translator’s note to The Evolution of Operational Art, VI; William McGranahan, “The Rise and Fall of Marshal Tukhachevsky,” Parameters 8, no. 4 (December 1978): 72; Glantz, “The Nature of Soviet Operational Art,” 8.
[38] Kipp, foreword to The Nature of the Operations of Modern Armies, XXI.
[39] Schneider, “Theoretical Implications of Operational Art,” 28.
[40] Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine,” 81 and 103; Schneider, “Theoretical Implications of Operational Art,” 28; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 119; Kipp, foreword to The Nature of the Operations of Modern Armies, XXI; Wilson C. Blythe Jr., “AirLand Battle the Development of a Doctrine” (master’s thesis, Eastern Michigan University, 2010), accessed 29 August 2018,
[41] Jacobs, “Tukhachevsky Rediscovered,” 69.
[42] Ibid.
[43] Ibid.; Kipp, “Soviet Military Doctrine,” 85; Kipp, foreword to The Nature of the Operations of Modern Armies, VIII.
[44] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 8; Clayton R. Newell, “On Operational Art,” in On Operational Art, 9, 10, and 14; Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine,” 106; Field Manual (FM) 100-5, Operations (Washington, DC: U.S. Government Publishing Office [GPO], 1 July 1976 [now obsolete]); John Romjue, From Active Defense to AirLand Battle: The Development of Army Doctrine, 1973-1982 (Fort Monroe, VA: Historical Office, U.S. Army Training and Doctrine Command, 1984), 19; L. D. Holder, “Doctrinal Development 1975-85,” Military Review 65, no. 5 (1985): 51; John L. Romjue, “AirLand Battle: The Historical Background,” Military Review 66, no. 3 (1986): 53; Richard Lock-Pullan, “‘An Inward Looking Time’: The United States Army, 1973-1976,” Journal of Military History 67, no. 2 (2003): 506.
[45] Swain, “Filling the Void,” 156; Trauschweizer, The Cold War US Army, 218; Brian M. Linn, The Echo of Battle: The Army’s Way of War (Cambridge, Harvard, 2007), 206 and 207.
[46] Romjue, From Active Defense to AirLand Battle, 53; Richard Swain, “AirLand Battle,” in Camp Colt to Desert Storm: The History of U.S. Armored Forces, ed. Donn Starry (Lexington: University Press of Kentucky, 1999), 382; Swain, “Filling the Void,” 158; Linn, The Echo of Battle, 209; James Burton, The Pentagon Wars: Reformers Challenge the Old Guard (Annapolis: Naval Institute Press, 1993), 53.
[47] Romjue, From Active Defense to AirLand Battle, 61; Swain, “Filling the Void,” 160, 161, and 163; Swain, “AirLand Battle,” 383 and 387; Edward N. Luttwak, “The Operational Level of War,” International Security 5, no. 3 (Winter, 1980-1981): 61–79; Trauschweizer, The Cold War US Army, 223; Naveh, In Pursuit of Military Excellence, 10.
[48] Swain, “Filling the Void,” 166; Clancy and Franks, Into the Storm, 112 and 139; Naveh, In Pursuit of Military Excellence, 8 and 10; Trauschweizer, The Cold War US Army, 222.
[49] Romjue, From Active Defense to AirLand Battle, 61; Holder, “Doctrinal Development 1975-85,” 52; Huba Wass de Czege and L. D. Holder, “The New FM 100-5,” Military Review 62, no. 7 (July 1982): 56; Swain, “Filling the Void,” 160; Newell, “On Operational Art,” 14; Clancy and Franks, Into the Storm, 139.
[50] L. Don Holder, “Education and Training for Theater War,” in On Operational Art, 172.
[51] Swain, “AirLand Battle,” 387; Paul DeVries, “Maneuver and the Operational Level of War,” Military Review 63, no. 2 (February 1983): 32.
[52] Swain, “AirLand Battle,” 340, 390, and 391; Swain, “Filling the Void,” 161, 163–65; Naveh, In Pursuit of Military Excellence, 11–12; Robert Citino, Blitzkrieg to Desert Storm: The Evolution of Operational Warfare (Lawrence, KS: University Press of Kansas, 2004), 264–65; Trauschweizer, The Cold War US Army, 228; FM 100-5, Operations (Washington, DC: U.S. GPO, 5 May 1986 [obsolete]), 10.
[53] Richard Lock-Pullan, “How to Rethink War: Conceptual Innovation and AirLand Battle Doctrine,” Journal of Strategic Studies 28, no. 4 (2005): 682; Swain, “Filling the Void,” 162; Richard Simpkin in association with John Erickson, Deep Battle: The Brainchild of Marshal Tukhachevskii (London, Brassey’s Defence, 1987), 77; Sally Stoecker, Forging Stalin’s Army: Marshal Tukhachevsky and the Politics of Military Innovation (Boulder, CO: Westview Press, 1998), 138; Citino, Blitzkrieg to Desert Storm, 262–63; Trauschweizer, The Cold War US Army, 223, 233–35; Clancy and Franks, Into the Storm, 134; Naveh, In Pursuit of Military Excellence, 250–51.
[54] Swain, “Filling the Void,” 162; Lock-Pullan, “How to Rethink War,” 682–83; Swain, “AirLand Battle,” 383; Citino, Blitzkrieg to Desert Storm, 261; Trauschweizer, The Cold War US Army, 210.
[55] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 2; Justin Kelly, “Where to for ‘The Operational,’” The Journal of Military Operations 1, no. 3 (Winter 2012): 8.
[56] Justin Kelly and Michael J. Brennan, “The Leavenworth Heresy and the Perversion of Operational Art,” Joint Force Quarterly 56 (January 2010): 114.
[57] Kelly and Brennan, “The Leavenworth Heresy,” 115.
[58] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 2, 4–6; Kelly and Brennan, “The Leavenworth Heresy,” 113–16.
[59] William F. Owen, “The Operational Level of War Does Not Exist,” The Journal of Military Operations 1, no. 1 (Summer 2012): 17.
[60] Owen, “The Operational Level of War,” 20.
[61] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 9.
[62] Owen, “The Operational Level of War,” 16–18; Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 9, 12, 16, and 17.
[63] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 3, 5, 9, 15, and 16.
[64] Kelly, “Where to for ‘The Operational,’” 8.
[65] Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 5.
[66] Isserson, The Evolution of Operational Art, 5.
[67] Kelly, “Where to for ‘The Operational,’” 9; Bruscino, “The Theory of Operational Art,” 5, 12–14.
[68] Kelly, “Where to for ‘The Operational,’” 10
[69] Erickson, “The Development of Soviet Military Doctrine,” 106.
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