米陸軍近代化の信条 (www.ausa.org)

米陸軍近代化戦略(AMS)は、2035年までに全米陸軍(正規米陸軍、国家警備隊、米陸軍予備役、米陸軍民間人)をどのようにマルチドメイン部隊に転換し、米国の防衛を提供する統合部隊の一部としての永続的な責任を果たすかを、そしてどのようにして地球規模での支配的な地上戦力としての地位を維持するかについて述べているものである。2019年に米陸軍近代化戦略を策定して以降、2021年にアップデートしている。

ここで紹介するのは、米陸軍協会のHPに掲載の米陸軍の近代化を図るための取組みを促進することを意図した米陸軍中佐の論稿である。米陸軍が実質的に近代化を進めるためには、先ずは目指そうとする米陸軍の近代化を理解し、更に、様々な意見を出していくことが重要であるとの考えから、ドクトリン、組織、訓練、軍需品、リーダーシップと教育、人事、施設、政策(DOTMLPF-P)のフレームワークを使用し、近代化における各要素について分析したものである。変革を必要とする特に陸軍種の組織の在り方を考える際の一つの示唆を与えてくれるものであると言える。(軍治)

米陸軍近代化の信条

TENETS OF ARMY MODERNIZATION

February 24, 2023

LTC Hassan M. Kamara, USA

ハッサン・カマラ(Hassan Kamara)米陸軍中佐は、米陸軍将来コマンドの将来コンセプト・センター、火力能力開発・一体化部門の上級軍事取得顧問である。オクラホマ州フォートシルの火力センター・オブ・エクセレンス(COE)に所属している。アリゾナ州立大学で政治学の学士号、ウェブスター大学で取得と調達の修士号、米国海軍大学院で戦略研究の修士号を保有している。

要点:IN BRIEF

– 本稿では、米陸軍の近代化の信条(tenets of Army modernization)を定義し、提示することで、より広範な言説を支援するためのコンセプトの実践的な理解を促進する。

– 陸軍の近代化とは、米陸軍を定義、構築、運用する重要な要素である、ドクトリン、組織、訓練、軍需品、リーダーシップと教育、人事、施設、政策(DOTMLPF-P)を、現在または従来の文脈から将来に向けて、進歩的に変革すること(progressive transformation)である。

– 近代化は、DOTMLPF-Pの各構成要素で成功裏に実装された進歩的な変革の事業(progressive transformation ventures)が、米陸軍の任務達成能力を全体的に強化するときに発生する。この分析は、新しい専門家が対話と応用のために米陸軍の近代化について実践的な理解を深めるのに役立つだろう。

はじめに:INTRODUCTION

我々は、ベトナム戦争後にリーダーたちが直面したのと同じような変曲点にいる。そして、彼らのように我々も自問自答しなければならない:我々は、今後40年間、競争し、勝利することができる軍隊を構築しているのだろうか?

米陸軍参謀総長 ジェームズ・C・マコンビル(James C. McConville)米陸軍大将[1]

本論文は、米陸軍近代化のコンセプトを定義し、提示することで、このテーマに関する広範な言説を支えるコンセプトの実践的理解を促進するものである。この内容は、米陸軍近代化の事業全体(Army modernization enterprise)に参加し、勝利のために漸進的に変革する米陸軍の継続的な取組みを続ける、米陸軍の専門家(Army professionals)の継承する世代にとって特に有益である。

米陸軍の近代化とは何か?米陸軍が自らを定義、構築、運用する重要な要素である、ドクトリン、組織、訓練、軍需品、リーダーシップと教育、人事、施設、政策(DOTMLPF-P)を、現在または従来の状況から将来に向けて進歩的に変革すること(progressive transformation)を指す。具体的には、近代化は、DOTMLPF-Pの構成要素全体で成功裏に実装された進歩的な変革の事業(progressive transformation ventures)が、米陸軍の任務達成能力を全体的に強化するときに発生する。

この近代化の定義とDOTMLPF-Pのフレームワークの分析を確実なものにすることは、対話と米陸軍近代化計画策定および実行への適用を促進するための集合的理解を提供するものである。さらに、この議論は、国防資源の制約が重なり、世界の安全保障情勢が不安定な現代において、特に価値あるものである。

近代化理論とDOTMLPF-Pのフレームワーク:MODERNIZATION THEORY AND THE DOTMLPF-P FRAMEWORK

以前の近代化の定義は、近代化理論(Modernization theory)に関する文献と、DOTMLPF-Pのフレームワークの要素が、米陸軍がどのように自らを定義し、構築し、運用するかを総体的に決定するという理解から影響を受けている。近代化理論(Modernization theory)の文献、特にシーモア・リップセット(Seymour Lipset)とW.W.ロストウ(W.W. Rostow)の研究は特に影響力がある。これらの学者の研究は、人間社会がどのように進化していくのかの理解を促進しようとする近代化理論(Modernization theory)にとって重要なものである。

シーモア・リップセット(Seymour Lipset)は、「政治家:政治の社会的基盤(Political Man: The Social Bases of Politics」は、人類社会の近代化を民主主義の発展という側面から捉えている。リップセット(Lipset)は、教育や経済などの原因要因の実証的分析を通じて、社会における民主主義の発展に関する従来の理論を正式に検証している。リップセット(Lipset)のアプローチは、米陸軍の近代化を研究し理解するためのDOTMLPF-Pのフレームワークの活用に役立っている。

W.W.ロストウ(W.W. Rostow)は、著書「経済成長の段階(The Stages of Economic Growth)」の中で、社会が政治の影響を受けながら社会経済成長の段階を経て近代化することを理論的に説明している。ロストウは、その段階を「伝統的社会」「離陸期の前提条件」「離陸」「成熟へのドライブ」「成熟した経済の転用」と位置づけている。ロストウ(Rostow)の理論を念頭に置くと、米陸軍の近代化を形作る原因と影響の力学を理解することができる。

近代化理論(Modernization theory)は、社会が政治的・社会経済的にどのように進化していくかを探る知的探求を促進するものである。人類社会の近代化とは何か、その原因、変化の軌跡、変化の段階、そしてその意味するところを、長い間、さまざまな理論家が指摘し、論じてきた。

しかし、この文献で一貫しているのは、近代化とは、人間のさまざまな側面(政治、経済、社会、軍事など)の、現在から将来への進歩的に移行させること(progressive transition)であるという、一般に認められた見方である。

近代化理論(Modernization theory)は、このように、人間社会の一部として、米陸軍が徐々に進化または近代化することを理解するための理論的基礎を提供し、したがって、米陸軍近代化(Army modernizationという用語がある。続いて、言説を確実にすることで、米陸軍がどのように定義し、構築し、運用するかを構成する基礎的な要素、すなわちDOTMLPF-Pの文脈で、米陸軍の近代化を分析する。

DOTMLPF-Pの変革フレームワークは、米陸軍が組織変革の構想し、計画し、実装するために使用する効果的なアプローチである。DOTMLPF-Pの各構成要素で実装された近代化または変化の事業(change ventures)は、米陸軍の全体的な進化を可能にする。歴史的な例と現代の例を用いて、続く分析は、フレームワークの各構成要素の進歩的に移行させること(progressive transition)が、米陸軍を近代化するために他の構成要素の変化にどのように拍車をかけるかを示している。

ドクトリン:DOCTRINE

軍事ドクトリンは、軍隊(armed service)が遂行を求められるさまざまな任務の計画策定と実装を導く原則で構成されている。ランド研究所によれば、軍事ドクトリンとは「国家安全保障上の目的を追求する軍隊を導く基本的な原則のセットである。. . .これらの原則は、. .特定の軍部によって導入された政策や手続きから、訓練中に新メンバーに教えられた戦術や技術に至るまで、様々なものがある[2]」。

軍事学者バリー・R・ポーゼン(Barry R. Posen)は、「軍事ドクトリンの源流:世界大戦間のフランス、イギリス、ドイツ(The Sources of Military Doctrine: France, Britain, and Germany Between the World Wars」の中で、先の定義と一致するドクトリンについて述べている。彼はドクトリンを「軍事的手段を明示的に扱う大戦略(grand strategy)の下位の構成要素[3]」と定義している。

ポーゼン(Posen)によれば、大戦略(grand strategy)が国家が自国とその利益を確実にするための計画であるのに対し、ドクトリンは国家がどの軍事手段を採用し、どのようにその手段を適用するかを導くものである。ポーゼン(Posen)は、ドクトリンには、「戦争を闘うために、一群の軍種、単一の軍種、またはサブの軍種が好む様式が含まれる[4]」と説明する。

用兵(warfighting)に望ましいアプローチとして、ドクトリンは軍事機関の組織構造、訓練、装備などに影響を与えるが、これは常にそうであるとは限らず、逆の場合もある。言い換えれば、DOTMLPF-Pの近代化フレームワークの構成要素として、ドクトリンの変化が近代化に拍車をかけ、フレームワークの他の側面の変化がドクトリンの変更に拍車をかけることがある。

ドクトリンは、過去の紛争の分析と研究、現代の脅威と作戦上の要件、および軍種のさまざまな兵種との実験を通じて、近代化に拍車をかける。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の戦時中、独陸軍(ライヒスヴェール)は、ドクトリンの変化が米陸軍の近代化を促進する優れた事例を示した。

ライヒスヴェール(独陸軍)では、ドクトリン改革は戦争、武器の専門性、および大胆な実験に関する集中的で綿密な分析と研究から生まれた。ジェームズ・コルム(James Corum)は、「この時代のすべての参謀の中で、ドイツの参謀は、軍事作戦の客観的分析を提供しながら、戦争を批判的に研究するというおそらく最も強い伝統を持っていた[5]」と書いている。

伝統に従って、ドイツ人将校は第一次世界大戦中の戦略、作戦、戦術、技術の成功や失敗について幅広く研究し、執筆した[6]

コルム(Corum)によれば、1920年に任命されたドイツの参謀総長ハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seeckt)は、第一次世界大戦で火力よりも機動力が優れていることが証明されたと考え、将来の戦争は大部分が機械化された機動の分野(mechanized maneuver affair)になると描いていた[7]。その後、ハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seeckt)は、独陸軍の将校団のかなりの部分を、第一次世界大戦の研究と、新技術を用いた機動ドクトリン(maneuver doctrine)の改良のためのアイデアの探求に集中させた。

ウィリアムソン・マレー(Williamson Murray)は、フォン・ゼークト(Von Seeckt)が最終的に戦闘経験のある400人以上の将校(異なる委員会で編成された将校団の約10%)に第一次世界大戦のドクトリンと戦術を研究させたと書いている。その結果、「非凡な独陸軍規則(AR)487(「リーダーシップと諸兵科連合の会戦(Leadership and Battle with Combined arms)[8]」が生まれた。

この規則(1921年~1923年発行)は、ドイツのドクトリンの中心を防御的なものから攻撃的機動(offensive maneuver)へと変え、部隊編成、機動(maneuver)、戦術を大胆に改革した。例えば、コルム(Corum)によれば、独陸軍規則AR487は、ライヒスヴェール(独陸軍)の騎兵隊を「移動支援部隊-自転車部隊、自動車化歩兵、野戦砲[9]」で強化した。

逆に、近代化は技術革新を通じてドクトリン開発に拍車をかけることができる。言い換えれば、軍部は既存の技術革新の追加的または広範な応用を特定し、その能力を利用し活用するためのドクトリンを開発することができる。

これは、ヘリコプターの技術と、米陸軍における空中移動ドクトリン(airmobile doctrine)の開発がそうであった:朝鮮戦争(1950-53)では、米陸軍はヘリコプターを使用したが、主に物資輸送と医療避難のために使用された。朝鮮戦争後、戦闘機動コミュニティ(combat maneuver community)(歩兵と騎兵)は、ヘリコプターの技術が兵站支援のための運用に加え、機動にも活用できると評価した。

この点に関して、第二次世界大戦で第82空挺師団を指揮したジェームズ・ギャビン(James Gavin)中将は、1954年7月に米陸軍野戦軍司令部に書簡を送り、ヘリコプターの後方支援の役割は戦術機動に次ぐものとすべきと評価している。クリストファー・チェン(Christopher Cheng)は、「同じ書簡の中で、ギャビン(Gavin)は戦闘部隊(コミュニティ)に対して、自分たちのドクトリン上の必要性を満たすヘリコプター輸送の用途を見つけるように求めた[10]」と書いている。

ギャビン(Gavin)の評価と一致し、1955年3月、米陸軍は新しいドクトリン「訓練回覧1-7:米陸軍輸送航空(Training Circular 1-7: Employment of Army Transport Aviation」を発表した。このドクトリンでは、ヘリコプターの主な機能は戦術的な機動であり、兵站は付加的な機能であると強調されている。チェン(Cheng)によると、このドクトリンは「米陸軍輸送航空は米陸軍の戦闘部隊を空輸して作戦行動することが役割である」と表現している。これには空挺作戦や空輸作戦が含まれる[11]」。

このドクトリン公刊物は、ヘリコプターの役割を主に兵站支援とする1950年の「訓練回覧19:輸送ヘリコプター中隊(米陸軍)(Training Circular 19: Transport Helicopter Company (Army)」に代わるものであった。

組織:ORGANIZATION

DOTMLPF-Pのフレームワークの組織の構成要素は、特定の任務を遂行するために設立された軍種内の認可され、人員配置され、財政的に支援された機構を指すものである。米国統合参謀によれば、この構成要素は「共通の任務を達成するために個人が体系的に協力し、統合用兵能力(joint warfighting capabilities)を直接提供または支援する構造によって可能となる多様な機能を有する統合部隊または統合要素に関係する[12]」。

ドクトリンと同様に、組織の進歩的な変化(progressive change)は、フレームワーク全体の近代化に拍車をかけることもあれば、フレームワークの他の要素における近代化が引き金となるケースもある。言い換えれば、軍隊は近代化に拍車をかけるために組織変更を行うことがあり、ドクトリンや、場合によっては軍需品開発に対応して組織変更を行うことになる。

戦間期、フォン・ゼークト(von Seeckt)は、ヴェルサイユ条約による制裁の中で、ドイツ将校団の知的才能を十分に生かし、近代化を図るために一連の組織改革に着手した。独陸軍や政府内の下部組織の再編成や合併を含む手法により、フォン・ゼークト(von Seeckt)は独陸軍の近代化に不可欠な中核機能の保持に成功した。

例えば、ヴェルサイユ条約でドイツ参謀本部の解散が決まったが、フォン・ゼークト(von Seeckt)は高度な訓練を受けた参謀の人材を保持し、正規軍や政府に分散させた。

ジェームズ・コルム(James Corum)によると「1919年11月、フォン・ゼークト(von Seeckt)が参謀本部を正式に解散したとき、その中核である作戦部署は、約60人の将校からなるトゥルペナームト(Truppenamt)(兵務局:Troops Office)[13]に温存された。旧参謀本部の他の部署は、単に他の政府の省に移管された[14]」と述べている。

ライヒスヴェール(独陸軍)における知的才能を十分に活用しようとする取組みの中で、フォン・ゼークト(von Seeckt)は、部隊削減のための保持基準も、優秀な人材の保持を優先するように形作った。コルム(Corum)によれば、「フォン・ゼークト(von Seeckt)は、独陸軍組織と上位司令部計画策定に関する経験を持つ参謀本部員に将校の残留を優先させたかった[15]」のである。

彼の再編成の取組みは、ドクトリンの進歩的に変革すること(progressive transformation)と近代化のフレームワークの他の構成要素に利用可能な知的資本を保存し集中させることによって、ライヒスヴェール(独陸軍)の近代化を助けた。

例えば、ライヒスヴェール(独陸軍)のドクトリン開発に知的資本を集中的に投入した結果、独陸軍規則AR487「リーダーシップと諸兵科連合での会戦(Leadership and Battle with Combined arms」の開発・出版に至った。このドクトリンの変更は、機動、火力、偵察の能力を高めるために、ライヒスヴェール(独陸軍)のラインユニット編成の構造を変更したことに伴うものだった。

この制度は、独陸軍の騎兵師団(機動砲兵と縦深偵察のためのイネイブラーの増員)と歩兵師団(移動砲兵、偵察部隊、信号・通信インフラ、観測機の増員)の人員・装備構成を改善した[16]

先の歴史的な例は、米陸軍が近代化のために漸進的な組織変更を行うことができることを示しているが、他のDOTMLPF-Pの構成要素における変革も、軍部内の組織構造の変更を誘発することができる。

例えば、先に述べたように、1950年代半ばに空中移動性に関するドクトリンが持続的に発展し、ヘリコプターを理解し戦術的機動に応用するための組織構造の変更が推進された。クリストファー・チェン(Christopher Cheng)によると、「1955年から1957年にかけて、米陸軍は3つの主要な演習(セージブラッシュ、ジャンプライト、スレッジハンマー)で、(異なるタイプの師団を支援するための)3つの異なる実験的航空騎兵組織(sky cavalry organizations)を評価した[17]」。

ドクトリンと実験的航空騎兵組織(sky cavalry organizations)による持続的な革新は、ヘリコプターのさらなる試験と空中移動作戦の開発のための第11航空攻撃師団の創設を支持した。

訓練:TRAINING

DOTMLPF-Pの近代化フレームワークのうち、訓練の構成要素は、他の構成要素における変化の正常化に不可欠であるため、このフレームワークに位置づける価値がある。このフレームワークでは、訓練とは、米陸軍兵士が事業体の成功的な運用と任務遂行のために職務を遂行するために必要な知識と技能を補完することである。

持続的な任務達成のために新しい訓練方法をうまく適応させ、身につけさせることなしに、ドクトリン、組織、装備、軍需品の持続的な変更はあり得ない。訓練の構成要素で適応に失敗すると、任務の失敗により、ドクトリン、組織、装備の変化が損なわれ、解明されることになる。

訓練への適応は、通常、ドクトリンや軍需品・装備の進歩的な変化(progressive change)によって推進される。このような変更に伴い、米陸軍は、新たなドクトリンによって広められた新しい手口(modus operandi)と、新たに導入された装備に基づいて、訓練し、熟練度を高める必要があるのが一般的である。

例えば、空中移動(Air Mobile)のドクトリンとヘリコプターの一体化における作戦効果を維持するために、米陸軍は新しく改名した第1騎兵師団(空中移動(Air Mobile))の戦闘武装要員を再教育しなければならなかった。この訓練適応は、1965年のイア・ドラン渓谷の会戦(Battle of the Ia Drang Valley)における同部隊の成功の中心であった。

この訓練の構成要素の重要性は、戦間期(1919-1933)のライヒスヴェール(独陸軍)の近代化によって、あらためてよくわかる。独陸軍が高度に熟練した編成(proficient formations)を構築したのはこの時期である。

ミッション・コマンド(mission command)、体力(physical fitness)、部隊訓練に重点を置き、いずれも頻繁で厳しい演習とシミュレーションを伴うものであった。ウィリアムソン・マーレー(Williamson Murray)によれば、1921年以降のフォン・ゼークト(von Seeckt)の訓練の到達目標は、ライヒスヴェール(独陸軍)の兵士一人ひとりに、責任を歓迎する自信に満ちたリーダーを作り出すことであった[18]

ミッション・コマンド(mission commandとは、「規律あるイニシアチブ」と「独立した積極的な行動」を用いて、部下が任務タスク(「ミッション・タイプの命令(mission type orders)」に記載されている)を「分権的に実行(decentralized execution)」することを表す言葉である[19]。1919年から1933年にかけて、独陸軍は、あらゆるレベルのリーダーに対して、任務の意図の中で問題を考え抜き、健全な解決策を打ち出す訓練を行った。

ウィリアムソン・マーレー(Williamson Murray)によれば、独陸軍規則AR487は「指揮官が作戦を可能な限り低レベルに分散させることを要求する」ことによって、ミッション・コマンド(Mission command)を促進した[20]。ミッション・コマンド(Mission command)、すなわち訓令戦術(auftragstaktikは、部隊訓練と専門教育で強調された。

ジェームズ・コルム(James Corum)によれば、フォン・ゼークト(von Seeckt)は「……リーダーが独立して考え、行動する人間であること、……いつ独立して行動し、いつ命令を待つべきかを理解することを教えられることが基本的重要事項」であると考えた[21]。ロバート・シティーノ(Robert Citino)は、フォン・ゼークト(von Seeckt)が指揮官に対して、兵士の中に独立した批判的思考(critical thinking)を育てるように促したことを書いて、同意している。「精神的な弾力性(Mental elasticity)は、兵士と将校の必須目標であった[22]」。

このような訓練のアプローチは、将来の戦争のペースが速ければ、指揮官の意図を満たすために規律あるイニシアチブをとる、攻撃的で想像力豊かな戦闘リーダーが必要になるという機関の理解から強調されたものである。

ライヒスヴェール(独陸軍)では、強化された体力(physical fitness)のための改革も重視された。独陸軍の速いテンポの訓練で兵士がより効率的に活動できるようにするため、体力(physical fitness)要件が制定された。

ロバート・シティーノ(Robert Citino)によると、フォン・ゼークト(von Seeckt)が最も重視した3つの分野(他は「若々しい熱意」すなわち積極的な関心と参加、「諸兵科連合戦での技能(skill at combined arms warfare)」)の1つで、「多くの兵士が肉体的耐久力の限界まで負担した」長い夏の演習の間、即応性と士気を維持するために、体力(physical fitness)は重要なものだった[23]

独陸軍規則AR487などの新しいマニュアルの発行により、独陸軍の部隊訓練は諸兵科連合の機動(combined arms maneuver)に焦点が当てられた。個人レベルから中隊レベルまでの訓練は、機動戦(maneuver warfare)のための戦術的知識の強固な基盤を下級リーダーに築くために重視された。

ジェームズ・コルム(James Corum)によれば、「1922年、部隊訓練プログラムは、歩兵の新しい規則に従って分隊、小隊、中隊を再訓練することを重視した[24]」という。

フォン・ゼークト(von Seeckt)時代の最も重要なマニュアルの一つは、1921年12月に発行された「ライフル分隊の訓練(Training of the Rifle Squad :Ausbildung der Schutzengruppe、A.d.S」で、特に諸兵科連合戦(combined arms warfare)における歩兵分隊の構成と戦闘機動(combat maneuver)に関する詳細が含まれている[25]」とロバート・シティーノ(Robert Citino)は書いている。

軍需品:MATERIEL

DOTMLPF-Pのフレームワークの軍需品の構成要素は、軍隊が任務を成功裏に遂行するために必要な装備品に焦点を当てる。この構成要素は他のDOTMLPF-Pの構成要素と強い相互関係があり、このフレームワークの中で位置づけられる。

技術や材料科学(materiel science)など、軍需品の開発が、ドクトリン、組織、訓練、その他フレームワークの構成要素の変化に拍車をかけ、広範な制度上の変化につながることがある。米陸軍の空中移動の開発に見られるように、軍需品、特にヘリコプター技術の開発は、ドクトリン、組織、訓練の変化に拍車をかけた。

おそらく、軍需品の構成要素に影響を与えるより一般的な相互関係のダイナミズムは、ドクトリンの進化が軍事機関における軍需品取得の焦点と戦略を形成するものである。これは戦間期のライヒスヴェール(独陸軍)におけるケースである。

パラダイムを変える独陸軍規則AR487に見られるような用兵(warfighting)に関するドクトリン観の変化の結果、ライヒスヴェール(独陸軍)は戦車、航空機、野戦砲、通信技術といった新しい軍事技術の開発と一体化(integration)を強調するようになった。

コルム(Corum)は、「第一次世界大戦で生まれた新技術は、新しい作戦ドクトリンの中で主要な位置を占め、比較的大規模な装甲作戦、すなわち連隊戦力による戦車攻撃は、新しい機動戦争(maneuver war)の重要な部分として予見されたのである[26]」と書いている。

ヴェルサイユ条約による装備と能力の制限にもかかわらず、同盟国との協力と即興によって、ライヒスヴェール(独陸軍)は近代的な装備を構築することができた。

実際、ヴェルサイユ条約の武装条項は、ドイツが1920年までに旧式化した第一次世界大戦の装備を手放さざるを得なかったという点で多少有利であった。したがって、独陸軍が諸兵科連合機動(combined arms maneuver)ドクトリンの改良に取組んだとき、手持ちの旧式な能力に妨げられることなく、即興的にアイデアを開発する自由があった。

コルム(Corum)によれば、「戦術に合わせた兵器を作ることができる[27]」のだという。この最終目的のために、ライヒスヴェール(独陸軍)はロシアとの取得ベンチャーを追求した。コルム(Corum)は、独陸軍が参謀本部内の特別取得局(特別グループR、ゾンダグルッペR)を通じて、ロシアで戦車や航空機のプログラムに資金を提供し管理し、カザンのような開発・試験センターを運営したと記している[28]

戦間期には、米陸軍の機動戦に関するドクトリン観も進化し、最終的には軍需品取得を形作ることになったが、1920年代には一部の米陸軍リーダーが当初は不安を抱いていたようである。アイゼンハワー(Eisenhower)が、彼とパットン(Patton)の諸兵科連合機動(combined arms maneuver)の実験に際して経験した逸話は、当時のこのような変化に対する広範な組織的不安を物語っている。

アイゼンハワー(Eisenhower)は、1920年代にメリーランド州フォートミードで2つの実験戦車旅団のうちの1つを指揮した。アイゼンハワー(Eisenhower)は、機動戦の将来について卓越した作戦先見性(operational foresight)を発揮し、戦車の戦争への応用は、単に騎乗歩兵を支援する以上の大きな可能性を持っていると考えていた。

アイゼンハワー(Eisenhower)によれば、彼とパットン(Patton)は、戦車の開発を歩兵の支援兵器という構図に縛り付ける既存の制度観とドクトリンに問題を感じ、これが速度や装甲の面での戦車の改良を妨げていると考えていた。彼はこう書いている、

「ジョージ(George)[パットン(Patton)]と私、そして若い将校のグループは、これは間違っていると思った。戦車はもっと価値のある、もっと華やかな役割を果たすことができるはずである。我々は、戦車はスピーディーであるべきで、奇襲攻撃や集団で攻撃すべきであると考えていた。事前に地形をうまく利用し、敵の防御陣地に侵入して混乱させ、敵の前線を逆手に取ることで、歩兵による前進だけでなく、防御陣地全体を包囲したり、実際に突破したりすることが可能になる。1年以上の作業を通して、理論を広げ、戦術的なアイデアを洗練させていった。我々は常に実験していた[29]」。

アイゼンハワー(Eisenhower)とパットン(Patton)は、最終的に専門誌に研究成果を発表したが、当時歩兵長であったチャールズ・ファンズワース(Charles Farnsworth)米陸軍少将が支持していた歩兵中心の作戦ドクトリンに挑戦したため、その後叱責を受けた[30]

ドクトリンの変化が軍需品取得の変化に拍車をかけたもう一つの好例は、ベトナムにおける米陸軍の経験に見ることができる。特に、ベトナムのメコン・デルタの海岸沿いの沿岸地域、当時サイゴンと呼ばれていた都市の南側で効果的に戦うために、米陸軍はドクトリンと組織を適応させなければならなかった。

米陸軍の戦闘開発コマンドは、この課題に対処するため、第9歩兵師団の歩兵旅団を、海軍の砲艦を装備して河川作戦(riverine operations)を行う川船部隊(riverboat force)に適応させるというコンセプトを策定した[31]

リーダーシップと教育:LEADERSHIP AND EDUCATION

DOTMLPF-Pのフレームワークのこの構成要素は、米陸軍があらゆるレベルのリーダーをどのように教育・育成するかに焦点を当てている。リーダーシップと教育は米陸軍の近代化にとって不可欠であり、それはリーダーが日常的な運営と組織の長期的な変革の両方に責任を負うからである。後者に関しては、米陸軍は上級リーダーが、人、システム、リソースの調整と、日々の活動に焦点を当てる事業体レベルのビジョンを含む方向性を示すことを期待している。

米陸軍戦争大学(Army War College)は、上級リーダー向けの入門書の中で、戦略的リーダーシップを「競争環境において優位性を獲得するために必要な適応的で革新的な文化を可能にしながら、事業体のビジョンを達成するために人、システム、資源を調整するプロセス[32]」と定義している。

リーダーがどのように選ばれ、教育され、運用されるかは、任務の達成や制度上の近代化にとって重大な意味を持つ。このことは、戦間期の独陸軍のリーダーシップと教育への取り組みを見れば明らかである。ライヒスヴェール(独陸軍)は、近代化の取組みの中で、将校および下士官(NCO)教育の質を重視し、特に技法教育(technical education)に重点を置いていた。

ジェームズ・コルム(James Corum)によれば、「専門的な独陸軍は、将校および下士官隊の技法教育(technical education)を促進する必要があった[33]」。と述べている。独陸軍は、将校と下士官の入隊要件を高め、発達段階の学校教育を長くし、すべてのレベルの学校教育の卒業を定着(retention)のための厳しい要件とした。

ジェームズ・コルム(James Corum)によれば、フォン・ゼークト(von Seeckt)は、「より高い水準と優れた訓練を受けた長期勤務の兵士によって構成され、高度な教育を受けた将校団と参謀によって率いられる専門性の高い独陸軍[34]」の創設を目指す政策を推進した。

士官候補生は4年間の訓練プログラムを受けなければならず、およそ18ヶ月の作戦部隊での訓練を経て、厳しい入試を経て歩兵(機動)学校での1年間、そして初級兵科学校での1年間、さらに配属部隊での短期間の評価を受けて任官となる[35]。このような方針により、独陸軍将校団には、最も高い知性と能力を持った人材のみが採用されることになった。

将校団の質の高さは、定着政策(Retention policies)によってさらに強化された。奉職を継続するために、将校は厳しい試験に合格する必要があった。ロバート・シティーノ(Robert Citino)は、独陸軍支部によって構成された1921年の国防地区試験について書いているが、この試験は、戦術・作戦熟達能力および諸兵科連合の適性(combined arms aptitude)の試験として、すべての独陸軍将校が受ける必要があった[36]

このような高いレベルの学問的適性と厳しさは、将校があらゆるレベルで専門的な勉強をする文化に賛同することを要求した。ジェームズ・コルム(James Corum)が書いているように、「1920年代から1930年代初頭にかけて、非常に強い教育倫理が独陸軍に築かれた[37]」。

下士官の経歴向上(career progression)もライヒスヴェール(独陸軍)では非常に競争的だった。例えば、コルム(Corum)によれば、兵士は伍長になるために3年間の勤務後に「下士官候補生試験」として知られる勤務試験を受けなければならず、米陸軍の一等軍曹に相当する等級の上級下士官は、一等軍曹になる資格のために勤務試験を受けなければならなかった[38]

戦間期における米陸軍のリーダー教育改革は、近代化と任務の有効性にとって、長期にわたって極めて重要であることを強調している。ジョージ・C・マーシャル(George C. Marshall)大佐(当時)は、フォートベニングの歩兵学校の副司令官として在任中、教育改革を行い、米陸軍が第二次世界大戦を乗り切るための戦闘リーダーの世代を育てるのに貢献した。

マーシャル(Marshall)が歩兵学校の変化を実装した期間は、非公式に「ベニング・ルネッサンス(Benning Renaissance)」と呼ばれているが、これは1920年代以降の数十年間に出現する戦争の性格について、明確で正確な見通しに基づいて、学校のカリキュラムに変更を加えたからである。彼は、将来の戦争は、不確実性に満ちた高速移動の機動の戦争(fast moving wars of maneuver)であり、適応力と創造力を備えた戦闘リーダーが必要であると想定していた。

その結果、第一次世界大戦で経験したような、将校が解決しなければならない軍事演習に不確実性を導入し、将校の創造性を誘発するような学校カリキュラムを適用した。彼は、不確実な周囲の環境の下で少ない情報でもタイムリーで効果的な意思決定ができるように、将校を訓練することを信じていた[39]

ジョージ・マーシャル(George Marshall)は参謀総長として、米陸軍が闘い勝利するために必要な有能なリーダーを確保するため、将校の人材管理に特に関心を寄せていた。ベンジャミン・ランクル(Benjamin Runkle)によれば、マーシャル(Marshall)は、知力(intellect)や体力(physical fitness)が戦闘作戦を指揮するのに適しているかどうか疑わしい多くの高齢の現役将校を引退させることを可能にする修正案を議会に働きかけ、成功させた。これに続いて、

マーシャル(Marshall)は、マリン・クレイグ(Malin Craig)元米陸軍参謀長をリーダーとする6人の退役将校からなる「摘発委員会」を創設し、年配の将校の効率性評価を見直すことを命じた。最初の6か月で、委員会は195人の大尉、少佐、中佐、大佐を解任し、今後5年間でさらに500人の大佐を即時退職に指定することになった[40]

人事:PERSONNEL

人材は米陸軍の最大の強みである。米陸軍内の用兵部隊(warfighting units)やその他の組織に人員を配置し、指導するためには、十分な人的資源が必要である。このため、人事の構成要素はDOTMLPF-Pのフレームワークの重要な要素であり、軍隊がどのように自らを定義し、構築し、運用するかを総体的に決定している。

基本的に、軍事機関の日常的な運営と長期的な近代化は、その隊列に属する優秀な軍人と文民従業員なしには実現できない。DOTMLPF-Pのフレームワークにおける人事の要素をこのように理解することで、競争の激しい雇用市場における人材の募集、活用、維持という明らかな懸念事項を考慮することになる。

戦間期には、ライヒスヴェール(独陸軍)は軍人の採用と維持に課題を抱えていた。これらの課題を克服するために、ライヒスヴェール(独陸軍)は将校と下士官の質の高い候補生を維持するために、給与と生活の質を高めた。

ジェームズ・コルム(James Corum)によれば、「質の高い新兵を集めるためには、軍隊生活を改善する必要があった。給与は引き上げられ、……職業軍人の生活水準は劇的に改善された[41]」。独陸軍の生活水準の向上の多くは、新しい施設の形で行われた。

ライヒスヴェール(独陸軍)では、軍人の育成と活用に徒弟制度のアプローチをとり、将校と下士官の持続的な経験的学習と成長を強調した。この措置は、軍人の職務上の専門的な成長を促進するため、より長い職務期間となった。ジェームズ・コルム(James Corum)は、「ドイツ軍の伝統は、兵士の徹底的な訓練を最優先した[42]」と書いている。

戦間期、米陸軍は、そのリーダーが克服すべき問題である人事上の課題に直面した。新しく参謀総長に任命されたマーシャル(Marshall)将軍は、米陸軍が即応性と近代化の両方を支えるために必要な人的資本を確保するために、米陸軍の人事上の問題に対処しなければならなかった。彼は参謀総長として米陸軍の戦争準備に粘り強く、規律正しく取組んだが、それは1939年9月の就任と重なる。

彼が最初にしなければならなかったことの一つは、米陸軍の人的資源と装備を拡大するための資源を得ることであった。ベンジャミン・ランクル(Benjamin Runkle)によれば、マーシャル(Marshall)は、大統領や議会議員との意図的な会合を通じて、戦時体制における米陸軍のケースを説得的に説明し、「正規軍の入隊兵力を23万人から37万5000人に引き上げる」ための予算を計上させ、大統領には州兵を現役で招集する権限が与えられた[43]

マーシャル(Marshall)の熱心な取組みのお陰で、議会は「戦争省(War Department)の総予算を30億ドル近くに引き上げ、米陸軍が200万人規模の部隊に必要な重要かつ長期のリード・アイテムを備蓄し、400万人規模の部隊に供給できる産業基盤を構築することができる[44]」法案を成立させた。

生活の質は、要員の定着(retention)と士気の向上に不可欠である。マーシャル(Marshall)は参謀長として、兵士の生活向上に役立つ生活の質の向上策も推進した。例えば、部隊のレクリエーション支援としてUSO(United Services Organization)の創設を支援し、現在ではすべての米軍兵士と派遣された同盟国の兵士に恩恵をもたらしている[45]

軍人の入隊状況の変化は、軍事機関の他の分野、例えば訓練における近代化に拍車をかけることがある。ベトナム戦争後の冷戦時代、1970年代前半の一連の近代化イニシアチブの一環として、米陸軍は広範囲に及ぶ改善を実装した。ベトナム戦争後に徴兵制が廃止され、米陸軍は志願制の軍隊に変わった。

この人材取得の変化により、米陸軍は志願して奉仕する意思のある人だけを採用することができるようになった。この発展により、米陸軍の訓練に対するアプローチの変更が必要となった。米陸軍訓練教練コマンドによると、第二次世界大戦までさかのぼる米陸軍訓練プログラム(ATP)と呼ばれる既存の訓練アプローチは、緊急に必要な戦闘力を生み出すために大量の徴兵者または徴用者を訓練することを指向していた[46]

そのため、ドラフト終了後、米陸軍訓練プログラム(ATP)は、単に短時間で大量の兵士のタスクを訓練するのではなく、より少量の兵士をより高い水準の熟練度に訓練することを指向する訓練アプローチへの適応を求められた。

施設:FACILITIES

DOTMLPF-Pのフレームワークのこの要素は、機関としての米陸軍の日常業務や活動を支援するインフラに焦点を当てる。軍隊は、住居、訓練、教育、兵站の即応性、日常業務を支援する施設の建設を優先する。

後者の要件を支援する適切な施設なしに米陸軍を近代化することは問題であり、施設の構成要素はDOTMLPF-Pのフレームワークにおいて重要であり、その地位に値するものである。

この点では、ライヒスヴェール(独陸軍)の経験がまた洞察に富んでいる。戦間期には、軍事作戦と生産、能力開発計画の両方を支援する施設を建設した。先に述べたロシアのカザンにある戦車、自動車、兵器開発を組み合わせて使用する訓練、試験センターはその一例である。

さらに、ライヒスヴェール(独陸軍)は兵舎、食堂、レクリエーション施設を改善した。コルム(Corum)によれば、「独陸軍の兵舎は、より快適な部隊の宿舎に改築・改装され、…部隊には、レクリエーションやスポーツ施設、部隊図書館、兵士クラブが完備された[47]」とのことである。

第二次世界大戦で日本とドイツに宣戦布告する前に、米陸軍はその訓練施設を活用して、当時としては最大規模の訓練イベントである1941年ルイジアナ機動(Louisiana Maneuvers)を実施した。ルイジアナ機動(Louisiana Maneuvers)は、この種の軍事演習の多くと同様、自動車化など米陸軍の改善すべき分野を特定し、新世代の将校の性能と将来の上級リーダーの可能性を明らかにするのに役立った。

その一例が、1941年のルイジアナ機動(Louisiana Maneuvers)で第三軍参謀長を務めていたアイゼンハワー(Eisenhower)大佐(当時)である。アイゼンハワー(Eisenhower)は、「自分のテントは、人々が悩みを打ち明ける場所となった[48]」と書いている。このようなリーダーシップと対人関係能力の融合が、後にアイゼンハワー(Eisenhower)が連合国最高司令官として部下の人間関係や複雑な性格をうまく管理するのに役立つことになる。

また、米陸軍が近代化に向けて進めている施設の役割も洞察に満ちている。その好例が、米陸軍の最高試験場であるユマ試験場である。この広大な施設には最大の陸上砲兵センターがあり、米陸軍は砲兵能力の大半の開発試験を行っている。

ユマ実験場のウェブページにあるように、「米陸軍の近代化取組みの最前線にあり、米陸軍将来コマンドの6つの機能横断的なチームによる将来の軍隊の構築を積極的に支援している[49]」。

現代では、2020年以降、米陸軍はユマ試験場の最高峰の試験施設と連携して、優れた研究所を活用し、プロジェクト・コンバージェンス(Project Convergence)と名付けられた学習と実験のキャンペーン(campaign of learning and experimentation)を実施している。これは、機関の近代化投資への情報提供に利用されている。この取り組みを主導する米陸軍将来コマンドによると、以下のようになる、

プロジェクト・コンバージェンス(Project Convergence)は、統合部隊(Joint Force)がスピード、範囲、意思決定の優位性を実験し、オーバーマッチを達成し、統合用兵コンセプト(Joint Warfighting concept)と統合全ドメイン指揮・統制(JADC2)に情報を提供するものである。学習のキャンペーンであるこのキャンペーンは、人工知能、ロボット工学、自律性を一体化し、戦場の状況認識を向上させ、センサーとシューターを接続し、意思決定のタイムラインを加速するために、一連の統合、マルチドメインでの交戦を活用する。なぜなら、最初に見て、理解し、行動できる者が勝つからである[50]

プロジェクト・コンバージェンス(Project Convergence)の取り組みは、米陸軍の継続的な近代化だけでなく、米国の統合部隊とその同盟国にとっても重要である。その成功は、開発、試験、実験施設に大きく依存している。このことは、進歩的に変革すること(progressive transformation)のためのDOTMLPF-Pのフレームワークの施設要素の重要性を強調するものである。

米陸軍の継続的な近代化における施設の役割を示すもう一つの優れた例は、有機産業基盤(OIB)を構成する23の補給処、工廠、弾薬工場である。米陸軍軍需品コマンドによると、「有機産業基盤(OIB)は米陸軍の装備を製造し、再配置し、整備し、統合部隊全体の戦闘員(warfighters)に重要な軍需品と後方支援(sustainment)を提供している[51]」。

有機産業基盤(OIB)は技法施設(technical facilities)と熟練した労働力で構成され、米陸軍が軍需品を近代化し、保守・修理を通じて作戦即応性を生み出すのを支援する。これらの施設のうち、アニストン米陸軍補給処は、重戦闘車両と小型武器に関する専門知識を提供している。

政策:POLICY

政策は、米陸軍の近代化を推進するための権限と制度的な職務(mandate)を提供する。その後、政策はDOTMLPF-Pのフレームワークの他の構成要素を発展させ管理するために採用される。この役割は、フレームワークにおける政策の位置づけを高め、米陸軍近代化における政策の重要性を強調するものである。

政策は、軍事機関が新たな改善の機会をどのように知覚し、相互作用するかを妨げたり、助長したりする。例えば、米陸軍規則AR 70-1「米陸軍取得方針(Army Acquisition Policy」は、「用兵能力(warfighting capabilities)に関する米陸軍の承認された要件を満たすための米陸軍物資ソリューションの研究、開発、取得、およびライフサイクル管理について規定するものである。この規則は、米陸軍の取得プログラムの管理に関して、他の米陸軍規則よりも優先される[52]

現代では、米陸軍の取得政策の変更により、物資の取得プロセスを改善することで機関の近代化が図られている。例えば、米陸軍規則AR 70-1の2018年版は、コスト効率と見積もり、即応性、試験と評価、能力開発における科学技術の一体化を改善する取得改革イニシアティブを取り入れ、サイバーセキュリティへの増加した焦点を提供している[53]

議会が指示した米国の軍事政策の変更は、米陸軍が第二次世界大戦を闘い、勝利するための準備に役立った。これらの政策変更は、マーシャル(Marshall)将軍を筆頭とする米戦争省(War Department)のリーダーたちのロビー活動によって行われた部分が大きい。

ショーンM.ザイグラー(Sean M. Zeigler)、アレクサンドラ・エヴァンス(Alexandra Evans)共著によると、マーシャル(Marshall)の執念により、「米国は、マンパワーの開発、産業の動員、防衛費の増加、訓練と即応性演習への集中の回復、最終的に米国の戦争の取組みの基礎となる動員計画の策定などの新しいイニシアティブを実装した[54]」。

マーシャル(Marshall)はまた、上級リーダーの意思決定と作戦を改善するために、米陸軍官僚制を改革する政策変更を行った。マーシャル(Marshall)は米陸軍参謀長に就任したとき、エリフ・ルート(Elihu Root)米陸軍長官のもと1903年の改革の一環として創設された米陸軍省参謀本部が非効率で煩雑になっていることを指摘した。

デビ・アンガー(Debi Unger)とその共著者によれば、「あまりにも多くの将校が参謀長(=米陸軍参謀総長)に直接接触し、一方、自律的な機関の長は凝り固まった特権を固く守っていた。このような取り決めにより、参謀長とその3人の代理は、果てしない詳細と些細な意見の相違に絡め取られていた[55]」。日本軍の真珠湾攻撃後、マーシャル(Marshall)は「戦争省(War Department)に書類が届くまで何日もかかった。全員が同意する必要があった[56]」。

マーシャル(Marshall)は、ロンドンからワシントンDCに将官ジョセフ・マクナーニー(Joseph McNarney)を再任し、米陸軍の参謀や機関の構造と運営を合理化することをタスクとする部局再編成委員会を主宰させた。

アンガー(Unger)によれば、マクナルニー(McNarney)は参謀総長に直接アクセスできる人数を「60人から6人に減らし、レスリー・マクネア(Lesley McNair)、ハップ・アーノルド(Hap Arnold)、ブレホン・サマーベル(Brehon Somervell)各大将の下で働く米陸軍地上軍、米陸軍航空軍、米陸軍軍種軍の3つの新しいコマンドを創設した[57]」。

米陸軍の近代化に対する政策の影響に関する最近の洞察として、米陸軍が従来男性のみであった戦闘特技を女性に開放したことが挙げられる。この変更により、米陸軍は、旧来のジェンダー規範に制限されることなく、人的資本全体から才能を戦闘部隊に適用できるようになった。これは、政策の変更によって、軍事機関が改善のための新たな機会をどのように知覚し、どのように対処するかが変わるという優れた例である。

結論:CONCLUSION

2020年10月に開催される米陸軍協会の仮想年次総会「AUSA Now」での発言で、現米陸軍参謀総長のジェームズ・マコンビル(James McConville)米陸軍大将は、米陸軍の近代化を継続しなければならないと断言した。「我々は今、近代化しなければならない。それは、最後の闘いをするのではなく、より良い闘いをするためである。次の闘いに勝つことである。そのためには、我々は変革しなければならない[58]」。

米陸軍の近代化取組みは、新しい世代のリーダーが機関の舵を取るにつれて継続することになる。この理解に基づき、本稿では、米陸軍近代化の事業全体(Army modernization enterprise)に参入する後継世代の専門家が、継続的な取り組みを継続するための実践的な理解のフレームワークを構築するのに役立つよう、米陸軍近代化というテーマを定義し検討した。

DOTMLPF-Pの各要素を歴史的な改革の例とともに分析した結果、それらが集合的に米陸軍を現在または伝統から将来へと進化させることがわかった。

DOTMLPF-Pの1つの要素または構成要素において、他の要素を無視して進歩的に変革すること(progressive transformation)を追求することは、任務を脅かす不均衡を引き起こす可能性があるため、得策とは言えない。上記の分析で示されたように、各要素はすべて相互に関連し、補完的である。近代化の計画担当者は今後、その相乗効果を総合的に管理しなければならない。

米陸軍の近代化とは、米陸軍が自らを定義し、構築し、運用する重要な要素、要するにDOTMLPF-Pを、現在または従来の文脈から将来へと進歩的に移行させること(progressive transition)である。これらの要素は米陸軍の基礎的な次元を構成し、近代化理論(Modernization theory)に関する強調された文献と一致して、その進歩的に変革すること(progressive transformation)は米陸軍を近代化し、それによってあらゆる敵対者に対して競争し、闘い、勝利することを可能にする。

ノート

[1] James C. McConville, “Address at AUSA Breakfast Series,” AUSA Breakfast Series, 21 January 2020, video, 26:35.

[2] “Military Doctrine,” RAND, accessed 3 January 2022, http://www.rand.org/topics/military-doctrine.html.

[3] Barry R. Posen, The Sources of Military Doctrine: France, Britain, and Germany Between the World Wars (Ithaca, NY: Cornell University Press, 1984), 13.

[4] Posen, The Sources of Military Doctrine, 14.

[5] James S. Corum, “A Comprehensive Approach to Change: Reform in the German Army in the Interwar Period,” in The Challenge of Change: Military Institutions and New Realities, 1918-1941, eds. Harold R. Winton and David R. Mets (Lincoln, NE: University of Nebraska Press, 2000), 37.

[6] Corum, “A Comprehensive Approach to Change.”

[7] James S. Corum, The Roots of Blitzkrieg: Hans von Seeckt and the German Military Reform (Lawrence, KS: University Press of Kansas, 1992), 38.

[8] Williamson Murray, “Armored Warfare: The British, French, and German experiences,” in Military Innovation in the Interwar Period, eds. Williamson Murray and Allan R. Millet (Cambridge, MA: Cambridge University Press, 1996), 37.

[9] Heeresdienstvorshrift 487, Fuhrung und Gefecht der verbundenen Waffen (Berlin: Verlag Offene Worte, 1921, 1923, 1925), Part 1, 47 as quoted in Corum, The Roots of Blitzkrieg, 35.

[10] Christopher C.S. Cheng, Air Mobility: The Development of a Doctrine (Westport, CT: Praeger Publishers, 1994), 96.

[11] Cheng, Air Mobility, 97.

[12] U.S. Joint Staff, Joint Capabilities and Integration Development System Manual, 31 August 2018, Annex F, Appendix G, Enclosure B, B-G-F-2.

[13] 【訳者註】兵務局(へいむきょく、独: Truppenamt、英: Troop Office)は、第一次世界大戦に敗れ、ヴェルサイユ条約を受け入れて軍備を10万人に制限され、参謀本部の保有を禁止されたドイツ軍が設けた、旧・プロイセン参謀本部の偽装名称である。(引用:https://ejje.weblio.jp/content/+Truppenamt)

[14] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 35.

[15] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 33.

[16] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 45, 47.

[17] Cheng, Air Mobility, 135.

[18] Williamson Murray, “Contingency and fragility of the German RMA,” as cited in “The Dynamics of Military Revolution 1300-2050,” eds. Macgregor Knox and Williamson Murray (Cambridge, MA: Cambridge University Press, 2001), 161.

[19] U.S. Joint Staff, Joint Publication 3-0: Joint Operations, 11 August 2011, II-2.

[20] Williamson Murray, “Armored Warfare,” 6–49.

[21] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 76.

[22] Robert Michael Citino, The Path to Blitzkrieg: Doctrine and Training in the German Army, 1920–39 (Boulder, CO: Lynne Rienner Publishers, 1999), 44–45.

[23] Citino, The Path to Blitzkrieg, 44.

[24] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 74.

[25] Citino, The Path to Blitzkrieg, 26–27.

[26] Corum, “A Comprehensive Approach to Change,” 42.

[27] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 99.

[28] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 98.

[29] Dwight D. Eisenhower, At Ease: Stories I Tell to Friends (New York: Doubleday, 1967), 169.

[30] Eisenhower, At Ease, 172.

[31] Lieutenant General Harry W.O. Kinnard, “Vietnam has Lessons for Tomorrow’s Army,” ARMY Magazine, November 1968, 78.

[32] Department of the Army, Strategic Leadership: Primer for Senior Leaders, 4th ed., (Carlisle, PA: U.S. Army War College Press, n.d.), 2.

[33] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 33.

[34] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 39.

[35] Dennis Showalter, “No Officer Rather Than a Bad Officer: Officer Selection and Education in the Prussian/German Army 1715-1945,” in Military Education: Past, Present, and Future, eds. Gregory C. Kennedy and Keith Neilson (Westport CT: Praeger Publishers, 2002), 51.

[36] Citino, The Path to Blitzkrieg, 74.

[37] Corum, “A Comprehensive Approach to Change,” 46.

[38] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 77.

[39] Benjamin Runkle, Generals in the Making: How Marshall, Eisenhower, Patton, and Their Peers Became the Commanders Who Won World War II (Guilford, CT: Stackpole Books, 2019), 164.

[40] Runkle, Generals in the Making, 275.

[41] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 70.

[42] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 10.

[43] Runkle, Generals in the Making, 270.

[44] Runkle, Generals in the Making, 270.

[45] Debi Unger et al., George Marshall: A Biography (New York: Harper Collins, 2014), 163.

[46] Anne W. Chapman, “The Army’s Training Revolution: 1973–1990: An Overview,” Office of the Command Historian, United States Army Training and Doctrine Command, 1994, 3.

[47] Corum, The Roots of Blitzkrieg, 70.

[48] Eisenhower, At Ease, 236.

[49] Department of the Army, Yuma Proving Ground, accessed 3 August 2022.

[50] Army Futures Command, “Project Convergence,” accessed 23 January 2023.

[51] U.S. Army Materiel Command, “Army Organic Industrial Base Modernization Implementation Plan,” Stand-To!, 25 March 2022.

[52] Department of the Army, Army Regulation (AR) 70-1: Research Development and Acquisition: Army Acquisition Policy (Washington, DC: U.S. Government Printing Office, 10 August 2018), i.

[53] AR 70-1, i.

[54] Sean M. Zeigler et al., The Evolution of U.S. Military Policy from the Constitution to the Present, Volume II: The Formative Years for U.S. Military Policy, 1898–1940 (Santa Monica, CA: RAND, 2019), 103.

[55] Unger, George Marshall, 159.

[56] Forrest C. Pogue, George C. Marshall: Ordeal and Hope, 1939–1942 (New York: Viking Press, 1966), 293, as quoted in Unger, George Marshall, 159.

[57] Unger, George Marshall, 160.

[58] General James McConville in Rick Maze, “Urgent Push: McConville: ‘We Must Modernize Now,’” Army Magazine, 14 January 2021.