ロシアのウクライナ侵略 第1部:物理的戦役 Maneuverist #21

米海兵隊機関誌「ガゼット」に連載のManeuverist Paperの21番目の、ロシアのウクライナ侵略に関する記事を紹介する。先ずは物理的な観点からの検証として、ロシア軍の地域ごとの作戦である、キーウの西部と東部の作戦、ドンバスでの作戦、アゾフ海沿いの作戦へルソン付近の作戦等に、区分して記述されている。記事の投稿時期の関係上4月14日までのものになるが、ロシア軍の本作戦行動の理解の一助になると考える。また、大隊戦術グループ(Battalion Tactical Groups)についての簡単な説明もある。(軍治)

ロシアのウクライナ侵略

第1部:物理的戦役

The Russian Invasion of Ukraine – Part I: The Physical Campaign

Maneuverist Paper No.21

by Marinus

Marine Corps Gazette • June 2022

注:この記事は、2022年4月14日に編集部に届けられており、それ以降の出来事については触れられていない。

2021年の訓練で2nd MARDIVの海兵隊員が使用しているSwitchblade Droneのような小型の徘徊型兵器(loitering munitions)は、ウクライナの装甲や他の集中したターゲットに対する小型地上部隊の致死性を高めている。(写真:サラ・ピッシャー米海兵隊一等兵)

機動戦(maneuver warfare)の第一人者であるジョン・R・ボイド(John R. Boyd)は、戦争は3つのレベルで行われるとしばしば主張した。物理的なレベルでは、敵対勢力(hostile forces)を挫折させ、孤立させ、弱体化させ、破壊するために、部隊や陣形が移動し、占領し、攻撃し、防衛する。精神的なレベルでは、交戦国は戦略と策略をさまざまに組み合わせて、敵(foes)の心に混乱、難問、認知的不協和(cognitive dissonance)を植え付ける。道徳的なレベルでは、行為主体はすべての関係者に、自分たちが敵対者よりも真実で、人道的で、公正で、信頼できる存在であると納得させるよう努力する[1]。どのような闘争(struggle)においても、観察者はしばしば、心や精神の変化を観察するよりも、隊列の動き、展開の程度、火力による被害を追跡する方が簡単であることに気づくだろう。

このように、精神的、道徳的な領域(arenas)で達成された効果が、肉と鉄によってもたらされた効果よりも強力であることが証明されても、ある特定の紛争を理解しようとする人々は、純粋に物理的な現象の検証から始めることが多いのである。そこで、2部構成の本稿の第1部では、ロシアのウクライナ侵略の具体的な側面を取り上げ、第2部では、その行動が精神的・道徳的な面に及ぼす影響を明らかにすることを試みることにする。

ミサイルによる打撃:Missile Strikes

2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵略において、物理的な領域で行われた最初の大きな行為は、300発もの誘導ミサイルによる固定施設への一連の攻撃であった。そのうちのいくつかは、主に2005年に導入された短距離弾道ミサイル(イスカンダル-M)であった。その他はカリブ系列の巡航ミサイルである。(弾道ミサイルは通常、地上車両から発射されたが、巡航ミサイルは海上の船舶と飛行中の爆撃機の組み合わせで発射されたようだ)。

最初のミサイル爆撃で撃たれたターゲットの多く(ほとんどではないにしても)は、滑走路やレーダーなど、ウクライナ軍の航空機の使用を支援するものであった。しかし、こうした攻撃の目的は、ロシアの制空権を確保することよりも、ウクライナのジェット機、ヘリコプター、ドローンがロシアの地上部隊の動きを妨げる能力を奪うことだったようだ。つまり、ロシアのミサイルの一部はウクライナの防空システムを破壊したが、侵略後数日間はウクライナ上空にロシアの有人機が相対的に存在しないことから、ウクライナの対空ミサイル砲列の一部は最初の猛攻を生き延びたと考えられる[2]

その後、ミサイル攻撃は、ややペースを落としながらも続けられた。かつてないほどの精度で撃たれたターゲットのほとんどが、軍事専用の建物か、民間空港のような軍事転用が容易な施設であった。(ロシアのミサイル攻撃のターゲットが純粋に軍事的性格を持つという一般原則の大きな例外は、2022年3月1日、ウクライナの首都キーウ(Kyiv)の中心部にある主要テレビ放送塔を誘導ミサイルが破壊したときに起こった)[3]

キーウ北西部の作戦:Operations Northwest of Kyiv

初日の2つめの大きな出来事は、ウクライナの首都キーウ(Kyiv)の北西郊外にある航空機の実験場、アントノフ空港をヘリコプターで攻撃したことである。有人機の飛行に消極的なロシアの例外的な対応により、この降下作戦は直ちに同飛行場を占領する結果となった。そのため、輸送機で輸送した兵士をヘリボーン攻撃で補強することが可能になった。しかし、間もなくウクライナ旅団の逆襲を受け、空挺部隊(desantniki)は近くの森に避難せざるを得なくなった。ベラルーシの集結地を出発し、1986年のチョルノービリ(Chernobyl)原発事故現場付近からウクライナに渡り、間もなく飛行場に到着する予定のロシア機械化部隊の到着を待っていたのである。

前述の機械化部隊は、翌日に空挺部隊と連携してアントノフ空港を奪還するが、16個もの大隊戦術グループからなる長い隊列の一部で、チョルノービリ(Chernobyl)地域とキーウ(Kyiv)郊外を結ぶ125km(75マイル)あまりのハードトップ高速道路を走ったのであった。(ロシアの大隊戦術グループは142台の車両で構成され、各車両の間隔を20メートルとすると、一列縦隊で3.5キロメートル(2マイル強)の道路空間を占有することになる。しかし、移動の後半は4車線の高速道路を利用し、最後の4分の1はさらに2車線の高速道路を利用したため、大隊戦術グループの隊列は移動の終盤になるほど短くなった可能性がある)。

アントノフ空港で戦ったロシア軍はキーウ(Kyiv)郊外に進出するのではなく、防御態勢に入った。チョルノービリ(Chernobyl)付近からウクライナに侵入したロシア軍の残りの部隊は、キーウ貯水池(Kyiv Reservoir)の西岸に沿った2000平方マイルほどの人口密度の低い土地を移動していった。(全長80キロメートルのキーウ貯水池(Kyiv Reservoir)は、ウクライナの首都の北を大きく2つの地域に分けている。西岸は田園、湿地、道路が整備されていないのに対し、東岸はかなりの都市部、森林自然保護区、ハードトップ道路、鉄道、近代的な高速道路のネットワークがある)。

キーウ貯水池(Kyiv Reservoir)の西岸の高水位と道路の不足により、この地域のロシア軍は、85キロメートル(50マイル)にわたって走る単一の全天候型陸路に依存していた。これを知って、キーウ(Kyiv)の北西に位置するウクライナ地上軍は、ロシアの生命線を切断するために少なくとも2つの試みを行った。チョルノービリ(Chernobyl)からの2車線の高速道路とキーウへの4車線の高速道路が交わるところにある、平時の人口1万人ほどの町イヴァンキフ(Ivankiv)がその最大の攻撃地点である。しかし、いずれの部隊も、渋滞を起こす以上の成果を上げることはできなかった。こうして、戦争の第一週が終わるころには、ロシア軍はキーウ貯水池(Kyiv Reservoir)の西岸を完全に支配し、さらに重要なことに、そこを通る一本の陸上の後方連絡線も支配していたのである。

戦争開始後1週間、キーウ貯水池(Kyiv Reservoir)西岸でのロシアの成功は、上空にウクライナ軍機がいなかったことに負うところが大きい。具体的には、有人・無人を問わず武装偵察モードで活動する大量のウクライナ軍地上攻撃機を前に、ロシア軍の長い車列は道路行進を行うことができなかっただろう。これが実現しなかったのは、2つの要因があったようだ。第一に、戦争初日のミサイル攻撃は、その後も(規模はやや小さいとはいえ)継続され、ウクライナの航空部隊は航空機を出撃させる能力をほとんど奪われた。第二に、キーウ貯水池(Kyiv Reservoir)の西岸で多層的な防空傘を維持する対空砲手(zenitchiki)は、空へ飛び立つことができた少数のウクライナ航空機が意図したターゲットに到達することを困難にしていたことである。

 

左図:キーウ貯水池周辺(訳者作成)      右図:ウクライナと関心地域の周辺(著者作成)

キーウ東部の作戦:Operations East of Kyiv

不思議なことに、キーウ貯水池(Kyiv Reservoir)の東側に配置された10個ほどのロシア大隊戦術グループは、西側に配置された大隊戦術グループとはかなり異なる方法を採用した。作戦移動に適した道路網と後方支援に便利な鉄道路線があったにもかかわらず、東部方面への進出は大幅に減少した。いくつかのルートで進軍したが、ウクライナとベラルーシの国境から南に55キロメートル離れた人口30万人ほどの都市、チェルニーヒウ(Chernihiv)にはたどり着けなかった。

その後、チェルニーヒウ(Chernihiv)以北のロシア軍は東西に陣地を拡大し、一昔前なら「観測軍(army of observation)」と呼ばれたような半円形の拠点に変貌していった。数日後、東から別のロシア野戦軍の12個大隊戦術グループが進駐してくると、当初は不可解だったこれらの陣地の目的が明らかになった。この野戦軍はすぐにキーウ(Kyiv)の北東郊外に到達し、チェルニーヒウ(Chernihiv)と首都の間に残るすべてのつながりを断ち切った。

孤立したチェルニーヒウ(Chernihiv)を完成させたロシア野戦軍は、同市の真東約200キロメートル(120マイル)の地点でウクライナに渡っている。そのため、キーウ貯水池(Kyiv Reservoir)の両側からウクライナ領に侵入した相手よりもはるかに長い距離を移動した。その過程で、この野戦軍の部隊が包囲し、短い銃撃戦の後、彼らのルートに沿って最大の都市であるコノトプ(Konotop)の降伏を受け入れた。(ロシア軍将校とコノトプ(Konotop)市長が合意した降伏条件は、ロシア軍を街から排除し、文民行政を残し、公共施設の上にウクライナ共和国の国旗を掲げ続けることを認めるというものだった) [4]

コノトプ(Konotop)を通過した野戦軍は、通過した道路の近辺の田園地帯をすべて占領しようとはしなかった。このようなやり方によってできた田園のポケット[5]のうち最も大きいものの一つが、チェルニーヒウ(Chernihiv)の南で、南北45マイル(72キロメートル)以上、東西75マイル(120キロメートル)の大きさであった。(ロシア軍は、このポケット内の最大の都市であるネージン(Nizhyn)市を、軍の飛行場と装甲工兵車両の修理施設があるにもかかわらず、占領することを断念した)[6]

チェルニーヒウ(Chernihiv)の南東では、さらに4つのロシア野戦軍が、それぞれが既に説明したのとほぼ同じ方法で組織され、ヨーロッパ・ロシアの中心部とウクライナの北東地区を隔てる長い国境を越えた。このうち最も北に位置する軍隊は、チェルニーヒウ(Chernihiv)包囲を完了した軍隊と平行に東西の軸線に沿って最も遠くまで進んだ。4軍のうち最も南に位置し、最も規模が小さかったと思われる軍は、最も進展が遅かった。8個の大隊戦術グループはいずれも国境を越えて100キロメートル(60マイル)以上進まず、一部の部隊はさらに控えめな動きしかしていない。

ロシア中部からウクライナに渡った部隊のうち、中間の2つの野戦軍はそれぞれ、大都市に阻まれた道をたどった。スームィ(Sumy)の場合は50万人の都市であった。ハルキウ(Kharkiv)の場合は、スームィ(Sumy)の3倍の人口を持つウクライナ第2の都市であった。

いずれの場合も、ロシア野戦軍は市街地(built-up areas)の制圧を本格的に試みることはなかった。むしろ、降伏を説得するために派遣された使節団が失敗した後、ロシア軍は都市に通じるルートに警備兵を配置し、進撃を続けた。

ドンバスでの作戦:Operations in the Donbass

ハルキウ(Kharkiv)南東部では、ウクライナ北東部の4つのロシア野戦軍のうち最南端が、2014年にウクライナ東部のドンバス地方に形成された2つの親ロシア原住民国家(pro-Russian protostates)のうち小さい方のルハンシク(Luhansk)人民共和国の軍と直接協力した。ルハンシク(Luhansk)人民共和国の民兵がセベロドネツク(Severodonetsk)の方向にゆっくりと計画的に前進している間、ロシアの大隊戦術グループはその都市とロシア国境の間の地域に一連のポケットを作り出した。(ルハンシク(Luhansk)州第2の都市であるセベロドネツク(Severodonetsk)は、ウクライナ政府に忠誠を誓った同州の一時的な首都であった)[7]

ドネツク(Donetsk)人民共和国の民兵は、多くの点でルハンシク(Luhansk)人民共和国の民兵と似ている。両組織は、特定のイデオロギーを受け入れるもの、特定の地域と強いつながりを維持するもの、そしてカリスマ的指揮官に従うものからなる自己募集の部隊で構成されていた[8]

こうした特異な傾向は、2014年にこうした私設軍隊が創設された時点ですでに顕著であったが、彼らがウクライナに仕える同等の組織と戦った7年の間に強化されたようである。親ロシア派民兵と同様に、ウクライナ側の武装非国家主体は、村や町、都市近隣の支配をめぐる歩兵集約的な戦闘でかなりの経験を積んだ。

親ロシア原住民国家(pro-Russian protostates)の民兵には、徒歩での戦闘、特に市街地(built-up areas)での戦闘に長けた者が多くいたが、ロシア陸軍の大隊戦術グループの下車兵は、数が少なく、装甲戦闘車との密接な連携を指向していた。同様に、原始国家民兵を支える兵站インフラが7年間の陣地戦を通じて構築されていたのに対し、大隊戦術グループを支えるトラック隊は、限られた道路網、ドローン攻撃、パルチザンに対処しなければならなかった。そのため、大隊戦術グループの自走榴弾砲や多連装ロケットランチャーは短時間の射撃任務にとどまるが、民兵の即席砲列は時間的にも空間的にも広範な砲撃を行う能力を持つことが多かった。

ロシア側の二つの基本的な地上部隊の特徴から、民兵部隊が固定し、大隊戦術グループが側面から攻撃するという分業が容易に行われた。ドンバスの多くの町や都市では、このような戦術によって形成されたやや小さな釜(cauldrons)[9]は、大隊戦術グループが田園地域を迅速に通過することによって形成された大きな包囲網よりも、はるかに困難であることが判明した。同時に、私兵部隊の指揮官はそのようなポケットを迂回できる立場にはほとんどなく、特にそのポケットが相手側のために戦う同様の部隊を庇護している場合はなおさらであった。(この現象は、マリウポリ(Mariupol)市の支配をめぐる壮絶な闘争(struggle)だけでなく、ヴォルノヴァハ(Volnovakha)のような短くて小さな、しかしそれに劣らず激しい町の戦いにも見られた)。

ハルキウ(Kharkiv)の南東75マイル(120キロメートル)にある人口6万人の町イジューム(Izium)で3週間にわたって繰り広げられた闘争(struggle)は、ロシアが市街地(built-up areas)を避けるという政策の例外として興味深いものであった。

戦役(campaign)の第2週に、ロシア軍はこの町の北部に入った。それとほぼ同時に、ウクライナ軍が南からイジューム(Izium)に進入してきた。簡単な遭遇戦(encounter battle)の後、町の中央を流れる川の北岸をロシア軍が、その障害物の南岸をウクライナ軍が守る陣地戦が始まった。この膠着状態は3月の最後の週、ロシア軍タスク・フォースが市街地(built-up area)南側の開けた土地に進駐してきたときに終わった。砲火の中で浮橋を組み立てる必要があったため、この作戦はイジューム(Izium)南部の守備隊を完全に孤立させることができなかった。しかし、ウクライナの指導者に、この町から軍を撤退させるように説得した。

ロシアがイジューム(Izium)を単に通過するのではなく、占領するという決定を下したのは、ウクライナ侵略の最も重要な作戦行動であるドンバスで戦う多くのウクライナ人部隊を包囲するための両翼のうちの1つとして、この町を起点にしたいという思いからであったようだ。特に、イジューム(Izium)の所有は、ロシア軍に、この町で交わる5つの高速道路、ハルキウ(Kharkiv)まで(そしてそこからMoscowまで)の鉄道線、および大規模な兵站基地の建設に適した地域を自由に使わせた。(イジューム(Izium)はオスヒル貯水池の西側に位置し、東側からの陸路攻撃から、その周辺の数百平方マイルを守っている)。

アゾフ海沿いの作戦:Operations along the Sea of Azov

ドンバスの南西端、マリウポリ(Mariupol)方面へのドネツク(Donetsk)人民共和国の支配地域に拠点を置く武装非国家主体による攻撃で戦争は始まった。マリウポリ(Mariupol)はアゾフ海に面するウクライナ最大の港で、50万人近い人々が住んでおり、その10分の9がロシア語を母国語としていた。しかし、2014年の大危機では、ドネツク(Donetsk)州の領域に形成されつつあった親ロシアの原住民国家(pro-Russian protostate)への編入を回避することができた。そのため、ロシアに対するウクライナの抵抗の象徴となり、悪名高いアゾフ大隊など、キエフの政府に味方する私兵の本拠地にもなった。

マリウポリ(Mariupol)への最初の攻撃と、戦争開始後8週間にわたって続いた他の多くの攻撃は、特定の地形を奪取するための組織的な試みという形をとっていた。そのため、ウクライナの他の場所で大隊戦術グループが行った作戦よりも、関与した戦闘員の犠牲や都市インフラの破壊、民間人の危険性が高いことが分かった。このような攻撃は、大量の弾薬を必要とするため、ロシアの補給システムにも大きな負担をかけることになった。

2022年2月27日、クリミアから侵攻したロシア軍は、アゾフ海に面したウクライナ第二の港、ベルジャンシク(Berdiansk)を制圧した[10]。港湾施設を無傷で奪取したロシア軍は、ベルジャンシク(Berdiansk)をマリウポリ(Mariupol)のすぐ西に位置するザポリージャ(Zaporizhzhia)州を移動する多くの大隊戦術グループの補給基地へと早々と変身させた。(これらの部隊は、マリウポリ(Mariupol)近辺で親ロシア軍と合流するために東へ移動するものもあれば、ウクライナ最大の河川であるドニプロ川の南岸へ北上するものもあった)

ザポリージャ(Zaporizhzhia)のロシア軍部隊は、いずれもクリミアで戦争を始めたもので、3つの回廊を使ってウクライナに侵入していた。最も広い通路は、クリミア半島とウクライナ本土を結ぶ唯一の地峡の上にあり、道路と鉄道の両方が利用できる。もう1つは、狭い海峡に挟まれた2車線の高速道路である。第3の回廊は、クリミア北東部の海岸沿いの砂州に点在する小さな村々を結ぶ田舎道で、最も狭い通路である。(この2つの回廊でウクライナ本土に行くには、橋を渡らなければならない。ひとつは前述の海峡にかかる橋で、クリミアとウクライナの国境にあたる。もう1つは砂州の北端にある川にかかる橋で、こちらは完全にウクライナ領内である。)

これらの回廊が簡単に塞がれたことから、ロシア軍は戦争初日の早い段階で隘路の制圧を試みたと考えられる。二つのケースでは、この試みは成功したようで、地峡と海峡のどちらを越えても大隊戦術グループの突進を妨げるものはなかったようである。

しかし、第3ルートの終点の北にあるアゾフスケ(Azovske)村に上陸したロシア海兵隊は、砂州と本土を結ぶ橋を爆破したウクライナ軍工兵を阻止することができなかった。アゾフスケ(Azovske)に上陸したロシア海軍の歩兵部隊に橋の確保が任務であったかどうか、歴史はまだ記録していない[11]。実際、ロシア軍が、遮断されやすく交通量の少ないこのルートを利用したかどうかも、まだわからない。しかし、確かなことは、装甲兵員輸送車に乗ったロシア海兵隊が海岸で過ごす時間はほとんどなかったということである。上陸地点から84キロメートル離れた内陸のメリトポリ(Melitopol)市を目指して走った[12]

へルソンとムィコラーイウでの作戦:Operations in Kherson and Mykolaiv

クリミアからウクライナに入ったロシア軍部隊のすべてがザポリージャ(Zaporizhzhia)に移動したわけではない。相当な数の部隊が北西に向かい、高速道路がドニプロ川を横断できるヘルソン(Kherson)州の2箇所を目指した。作戦の初日の終わりまでに、これらの部隊のうちの1つが、ノーバ・カホフカ(Nova Khakovka)のダムの上部を通る最も東の横断路を占領した。

同時に、別の部隊がヘルソン(Kherson)市郊外の工業地帯であるアントニフカ(Antonivka)の橋を占領したが、維持することができなかった。その後、アントニフカ(Antonivka)のロシア軍が橋の制圧をめぐって一進一退の攻防を繰り広げる中、いくつかの大隊戦術グループがノーバ・カホフカ(Nova Khakovka)でドニプロ川を渡り、ヘルソン(Kherson)市を包囲した。

ドニプロ川を渡ったロシアの編隊の一部はヘルソン(Kherson)からのルートを封鎖したが、他の編隊は西に押し寄せた。ヘルソン(Kherson)が降伏した時(2022年3月1日)までに、これらの後者の軍隊は、黒海のウクライナで2番目に大きい港であるムィコラーイウ(Mykolaiv)の郊外に達していた。

ウクライナ海軍にとってこの都市が重要であるにもかかわらず、ムィコラーイウ(Mykolaiv)近郊で活動しているロシア軍はこの都市を奪取しようとはしなかった[13]。むしろ、この都市に至る経路を掌握し、大隊戦術グループを偵察-実戦任務に投入し、この地域にある多くの軍事・海軍施設を破壊する任務を誘導ミサイルと航空機に委ねた[14]

ウクライナの兵站に対する攻撃:Attacks on Ukrainian Logistics

3月に入ってからのロシアの静止ターゲットへのミサイル打撃の戦役(Russian campaign of missile strikes against static targets)は、ウクライナ軍の航空関連施設から、地上軍を支援する燃料倉庫、弾薬倉庫、作業場などの施設に重点が移った。

例えば、2022年3月19日夜から20日にかけて、黒海のロシア艦船から発射されたカリブ巡航ミサイルは、チェルニーヒウ(Chernihiv)の南東約40マイル(64km)にあるネージン(Nizhyn)の工兵車両工場に直撃した。(この攻撃を説明するロシアのプレスリリースは、この工場を戦闘で損傷したウクライナの装甲車が修理されている場所と説明している)。同じ日の夜、極超音速ミサイルがムィコラーイウ(Mykolaiv)の北西約40マイルにあるコスタヤンチニフカ(Kostayantynivka)の町の燃料貯蔵・流通センターを襲った。

誘導ミサイル戦役(guided missile campaign)の重点が移ると同時に、ロシア軍機による地上攻撃作戦の回数が大幅に増加した。このうち、ミサイルと同じようなターゲットを攻撃するものはごく一部であるが、地上攻撃のほとんどは、強点(strong points)や軍事装備品の集中する地域に向けられていたようである[15]。(意外なことに、ロシア軍機が武装偵察モードで作戦したという報告はない。このことが、慣行の変化によるものか、それとも単にウクライナ地上軍による大規模な道路移動が少なかったことによるものかは不明である)。

再配置:Redeployment

2022年4月の最初の3日間に、キエフ貯水池の両側とウクライナ北東部で活動していたロシア地上軍はすべて、ベラルーシとロシアの集結地に帰還した。この大移動の結果、ウクライナに駐留するロシア地上軍の60~65%が再配備可能になった。逆に言えば、ロシア軍の侵略部隊のかなりの部分が撤退したことで、強力な作戦予備隊が編成される可能性が出てきた。

4月の第2週、ウクライナ北部から撤退したロシア軍部隊の一部と多数の新編成がイジューム(Izium)近辺に到着した。そこで彼らは、セベロドネツク(Severodonetsk)に向けた前進に参加し、それが完了すれば、ルハンシク(Luhansk)人民共和国の民兵が支配する領域の北側にポケットを作ることになる。

 

大隊戦術グループ:Battalion Tactical Groups

2022年2月24日にウクライナに侵攻したロシア地上軍の基本構成要素は「大隊戦術グループ(battalion tactical group)」[batal’onnaya takticheskaya gruppa]である。その名が示すように、これらの諸兵科連合のフォーメーションはしばしば戦術的な目的のために使用される。

それでも、2022年のロシアのウクライナ侵略の最初の数日間には、大隊戦術グループに直接作戦上重要な任務が与えられることがあった。橋の奪取や「インテリジェンスのための闘い(fighting for intelligence)」(razvedka boyem)などがそれである。

後者は「戦闘による偵察(reconnaissance by combat)」とも訳すことができるが、ウクライナの防衛線に悪用可能な隙間を突き止めるために、比較的小規模で攻撃を行うことを含んでいた。したがって、それは古典的な機動戦技法である「偵察プル(reconnaissance pull)[16]」と多くの共通点がある。

組織の面では、過去80年間、陸軍と海兵隊が採用してきた大隊戦闘チームと共通する部分が多くある。

米国の大隊戦闘チームと同様に、ロシアの大隊戦術グループは歩兵大隊に他の兵科の小部隊を加えて強化した。しかし、大隊戦術グループは、米国のものに比べて大砲をより多く搭載する傾向がある。

通常の米国の大隊戦闘チームが、長い間、その時々の標準的な直接支援野戦砲を搭載した単一の砲列を備えていたのに対し、典型的なロシアの大隊戦術グループの砲兵は、自走式152mm榴弾砲の砲列、トラック搭載の多連ロケットランチャーの砲列、短距離対空ミサイル発射装置の砲列で構成されている。※

※:この典型的なロシア大隊戦術グループの組織に関するこの記述は、ロシア国防省のウェブサイト(現在はアクセスできない)に掲載されているインフォグラフィックから引用した。

図1.典型的なロシアの大隊戦術グループを構成する戦闘部隊(著者作成)

ノート

[1] For a concise explanation of Boyd’s three levels of war, see William S. Lind, “John Boyd’s Art of War,” The American Conservative, (August 2013), available at https://www.theamericanconservative.com.

[2] Justin Bronk, “The Mysterious Case of the Missing Russian Air Force,” RUSI, (February 2022), available at https://rusi.org.

[3] Ryan Merrifield and Sam Elliot-Gibbs, “Kyiv TV Tower Explodes after Russia Warns of Missile Strikes in Ukraine Capital,” Mirror, (March 2022), available at https://www.mirror.co.uk.

[4] Natalia Gurkovskaya, “Fighting in Sumy Region: Konotop Authorities Hold Talks with Occupiers after Ultimatum [Бої на Сумщині – влада Конотопа провела переговори з окупантами після ультиматуму],” RBC.UA, (March 2022), available at https://www.rbc.ua.

[5] 【訳者註】ポケットとは、敵対勢力によって後方支援拠点や他の友軍部隊から孤立した戦闘部隊の集団のこと。(引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Pocket_(military))

[6] Staff, “Nizhyn Repair Plant of Engineering Vehicles” [Нежинский ремонтный завод инженерного вооружения], Guns.UA, (n.d.), avail- able at www.guns.ua.

[7] Often, though not invariably, named for the city that serves as its capital, an oblast is an administrative district that corresponds, more or less, to an English county or a French department.

[8] For a detailed description of the component units of the New Russian militias, see Tomáš Šmíd and Alexandra Šmídová, “Anti-Government Non-State Armed Actors in the Conflict in Eastern Ukraine,” Mezinárodní Vztahy: Czech Journal of International Affairs, (Prague: Institute of Inter- national Relations, June 2021).

[9] 【訳者註】釜(cauldrons):ドイツ語では一般に、包囲された軍隊のことをケッセル(Kessel)(文字通り釜(cauldron))といい、ケッセルシュラハト(Kesselschlacht)((釜の戦い:cauldron battle)とは挟み撃ち(pincer movement)のことを指す。(引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Pocket_(military))

[10] Staff, “Russian Forces Seize Port of Berdyansk,” The Maritime Executive, (February 2022), available at https://www.maritime-executive.com.

[11] 一部の観測者は、ロシア海兵隊の上陸が行われたアゾフスケ(Azovske)を、東に約95マイル(150キロメートル)離れたベルジャンシク(Berdiansk)港の周辺にある同名の別の村と混同している。この間違いから、海軍歩兵部隊の上陸はマリウポリ(Mariupol)から西に112kmの地点で行われたという主張がしばしば繰り返されるようになった。後者の間違いの例としては、「ロシア海軍がマリウポリ(Mariupol)近郊で水陸両用攻撃を実施」The Maritime Executive, (February 2022), https://www.maritime-executive.comを参照。

[12] Staff, “Russian Troops Welcomed with Flags in Ukraine’s Melitopol,” Tass, (February 2022), available at https://tass.com.

[13] ミコライフ(Mikolaiv)を奪おうとするロシアの試みがなかったため、ウクライナの小部隊がはるかに大規模なロシア軍を阻止したという話が多く聞かれるようになった。色とりどりの例として、Yaroslav Trofimov氏の「ミコライフ(Mikolaiv)近郊のウクライナ軍の反攻により、戦略的な港湾都市が解放された」The Wall Street Journal, (March 2022) https://www.wsj.comを参照。

[14] For an account of one of the many missile strikes upon targets in Mikolaiv, see Michael Schwirtz, “Russian Rocket Attack Turns Ukrainian Marine Base to Rubble, Killing Dozens,” New York Times, (March 2022), available at https://www.nytimes.com.

[15] For examples of Russian reports of the results of such attacks, see the daily briefings on the official Telegram channel of the Russian Ministry of Defense (t.me/mod_russia_en).

[16] 【訳者註】偵察プルとは、連隊から師団レベルまで適用される戦術で、敵の弱点を突き止め、迅速に攻略することと定義される。敵の位置を特定し、障害物や強襲地点を避けながら、友軍が通り抜けられるような間隙を作る能力である。(引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Reconnaissance)