機動戦理論の進化 Maneuverist #23

米海兵隊内では、戦いの性格(character of warfare)の変化に応じたドクトリンのあり方が課題となっているとする見方もある。米海兵隊の退役将官を含めたMarinusと名乗るグループは、米海兵隊で1970年代頃に起こったと言われる米海兵隊ガゼット誌上での「機動戦(maneuver warfare)」についての議論を期待している。

2020年8月のManeuverist PapersのNo.1から始まった議論は、機動戦の考え方が生まれた歴史的背景や機動戦理論の特性、米海兵隊の新しい作戦コンセプトが遠征前進基地作戦(Expeditionary Advanced Base Operations:EABO)を含め、更にロシア・ウクライナ戦争生起後は、その戦争から得られる機動戦理論から見た特徴の分析などを取り扱ってきている。

ここで紹介するのは、「機動戦(maneuver warfare)」についての議論が促進されることを期待して、機動戦が生まれてきた経緯を再整理したmaneuverist Paper No.23「The Evolution of Maneuver Warfare Theory」である。

MCDP1  Warfighting」がいくら優れたドクトリン文書だとしても、Marinusと名乗るグループは、「機動戦(maneuver warfare)」が今後も「戦いのドクトリン」かについて確証が持てるとは言い切れないとしているようである。本稿の最後に、「・・・・機動戦がドクトリンとなってから30年、米海兵隊は今後の戦いの本質と遂行に関する見解について話し合う時期が来ていると考えている」とあるように、1970年代以降のように議論が進まない苛立ちをも感じ取れる。

情報技術の高度化が進み、戦いの性格が変革していく中、軍隊として戦い方のドクトリンを検討し成文化していくことの重要性は言うまでもない。本稿でも取り上げられている米陸軍のドクトリン開発のように、また、最近著された「アメリカ合衆国陸軍の基本的運用の変遷と背景」でも著されているように軍種内の制度的取組みとして本腰を据えて進めていかなければいけないのかもしれない。(軍治)

機動戦理論の進化

The Evolution of Maneuver Warfare Theory

maneuverist Paper No.23

by Marinus

Marine Corps Gazette • September 2022

 

オーストラリア、カナダ、マレーシア、米国の部隊は、リムパック(RIMPAC)2022の一環として、海上での水上のターゲットに対する戦術、照準、実射の習熟を図るため、退役した元USSロドニーMデイビス(FFG 60)に発砲、撃沈(2022年7月12日)。(写真:米海軍提供)

Marinusは、米海兵隊のドクトリンの過去、現在、未来に関心を持つ退役軍人や元米海兵隊員のグループである。ジョン・F・シュミット(John F. Schmitt)、ブルース・I・グドムンドソン(Bruce I. Gudmundsson)、P.K. ヴァン・ライパー米海兵隊中将(Lt. Gen P.K. Van Riper)、エリック・M・ウォルターズ米海兵隊大佐(Col Eric M. Walters)、ジェームズ・K・ヴァン・ライパー米海兵隊大佐(Col James K. Van Riper)が所属している。

『用兵(Warfighting)』 が提示する機動戦理論(maneuver warfare theory)は、成熟し、論理的で、ほぼ首尾一貫していることに、ほとんどの米海兵隊員は同意する だろう。このようなことは、常にそうであったと思いたい。機動戦理論(maneuver warfare theory)は、ジョン・ボイド(John Boyd)のOODAループを理論的基礎として、そこから論理的に進歩し、何らかのマスター・デザインに従って論理的かつ体系的に発展したものであると思いたいものである。

しかし、現実は全く異なり、はるかに複雑である。機動戦の理論は、同時期に生まれたいくつかの異なる源泉から有機的に発展したものである。

機動戦運動(maneuver warfare movement)がベトナム戦争における米軍の機能不全に対応するものであったことは、これまでに述べたとおりである。(機動戦論者論文No.1、「海兵隊機動戦:歴史的文脈(Marine Corps Maneuver Warfare: The Historical Context)」米海兵隊ガゼット2020年9月号参照)。

その反応は、いくつかの個人やグループの間で同時に自然発生的に生まれた草の根運動だった。それは、いくつかの知的な糸が有機的につながり、後にようやく協調的な方法で織り上げられたものであった。

この進化の最良の歴史的記述は、イアン・T ・ブラウン(Ian T. Brown)の優れた『戦争の新しいコンセプト:ジョン・ボイド、アメリカ海兵隊、機動戦(A New Conception of War: John Boyd, the U.S. Marines, and Maneuver Warfare)』である[1]ブラウンの主な関心事は、ボイドの機動戦運動への貢献(これについては後で詳しく説明する)であるが、彼は進化全体をある程度詳細に扱っている。

知的な糸:The Intellectual Threads:

最初の糸は、特定のイデオロギーや歴史的先例に従うことなく、海兵隊の戦術を健全な実用的基盤に回復しようとする、初期の実用的な推論と探求の路線であった。これは、マイケル・D・ワイリー(Michael D. Wyly)米海兵隊大佐のようなベトナム戦争経験者や、スティーブン・ミラー(Stephen Miller)、ウィリアム・ウッズ(William Woods)、ゲイリー・I・ウィルソン(Gary I. Wilson)といった、ベトナム戦争の機能不全の矢面に立たされたわけではないが、確実にその余波を経験した若い将校たちによって提唱されたものであった。

その代表的なものが、ミラー(Miller)が1975年に発表した米海兵隊ガゼット誌の記事「偽装と欺瞞(Camouflage and Deception)」である。この記事には、孫子(あるいはボイド)の言葉そのままのような、こんな一節がある。「時間が重要だ。反応する時間、奇襲をかける時間、自分たちの生存率を高め、敵に見せる戦闘力の効果を高める時間だ」[2]。これらの初期の考え方は、後に機動戦の理論となるものと非常に相性が良いことが証明され、イアン・T ・ブラウン(Ian T. Brown)が指摘するように、予見的でさえあった[3]

この糸では、1980年代前半にアルフレッド・M・グレイ米海兵隊少将(Maj Gen Alfred M. Gray)(当時)の下で行われた第2海兵師団での実践的な実験も紹介されている。その最高峰は、アルフレッド・M・グレイ(Alfred M. Gray)のもとで毎年行われていたバージニア州フォートピケットでの諸兵科連合作戦(combined arms operations)であった。この諸兵科連合作戦(combined arms operations)は、自由統裁(free-play)で大隊同士の部隊対抗演習(force-on-force exercise)である。

演習は通常、午後遅くには終了し、全将校と下士官が基地の劇場に戻って、グレイ(Gray)が自ら行うホットウォッシュ(hotwash)に、ビル・リンド(Bill Lind)やジョン・ボイド(John Boyd)、米海兵隊ガゼット誌編集者のジョン・グリーンウッド米海兵隊大佐(Col John Greenwood)が同席することがあった。

※ ホットウォッシュ(hotwash)とは、演習や訓練セッションの後、直ちに「行動後(after-action)」の討議をし、機関(または複数の機関)のパフォーマンスを評価すること(https://en.wikipedia.org/wiki/Hotwash)。

当時、グレイ(Gray)は 「機動戦」という言葉を使うのと同じくらい、「賢く闘う(fighting smart)」ことについて話していた。その他にも、「浸透戦術(infiltration tactics)」、「大胆な戦い(audacity warfare)」、「常識的な戦術(common-sense tactics)」、「敵指向の作戦(enemy-oriented operations)」などの用語が様々な時期に実験された[4]

2つ目の糸は、機械化された作戦(mechanized operations)である。1970 年代後半、米海兵隊は機械化の是非をめぐる議論を展開した。この議論は装備に焦点を当てたものであったが、作戦遂行にも踏み込んだものであった。1979 年 10 月、機械化された作戦をテーマにした米海兵隊ガゼット誌の編集者への書簡で、ウィリアム・S・「ビル」・リンド (William S. “Bill” Lind)は、まず「機動戦(maneuver warfare)」という言葉を紹介し、これを「敵の後方地域の縦深で作戦のテンポを上げて維持 することによって敵の指揮権を粉砕し、直接作戦成功を収める[5]」試みと定義している。

その2ヶ月後、「機動で勝利する(Winning Through Maneuver)[6]」と題するロナルド・C・ブラウン(Ronald C. Brown)米海兵隊大尉の記事で、「機動戦(maneuver warfare)」という言葉が再び米海兵隊ガゼット誌の紙面に登場する。

機動戦理論(maneuver warfare theory)が機械化された作戦に依存することはなかったが、機械化された作戦は米海兵隊員が容易に見 て理解できる機動戦の物理的現われとなった。フォートピケットの演習は機械化部隊によって行われた。縦深への侵入と掃討包囲の中で、米海兵隊員は機動戦(maneuver warfare)の機動(maneuverを見ることができた。グレイ(Gray)がロンメル式にヘルメットに砂漠用のゴーグル(desert goggles)を装着している姿は、象徴的なものとなった。

機動戦と機械化された作戦との関連は、米海兵隊員が機動戦のコンセプトを他の作戦環境に適用しようとするにつれて、やがて薄れていった。このように、機動戦の物理的な罠は時間とともに消え、機動戦論者は機動というものを、単に関係する動きではなく、より根本的な観点から理解するようになった[7]

機動戦の物理的な罠が薄れるにつれて、機動戦理論(maneuver warfare theory)はより抽象的になり、精神的、道徳的な要素に焦点が当てられるようになり、それはボイド理論(Boydian theory)(後述)とともに収斂していくことになる。しかし、それでも、機械化された糸は、機動戦理論(maneuver warfare theory)の初期の進化に不可欠であった。

第29代米海兵隊総司令官アルフレッド・M・グレイ・ジュニア(Alfred M. Gray, Jr.)米海兵隊大将は、米海兵隊の用兵ドクトリンと哲学である機動戦の開発と採用に尽力した。(写真:海兵隊歴史部)

3つ目の糸は、ドイツの影響である。ワイリー(Wyly)、ボイド(Boyd)、その他の人々はドイツの軍事史に精通していたが、ドイツの糸の主唱者はビル・リンド(Bill Lind)であった。2つの世界大戦におけるドイツの戦術・作戦方法は、リンド(Lind)にとって機動戦であり、ドイツの方法をアメリカの聴衆に適応させる必要はほとんどないと考えているようであった。

リンド(Lind)の世代モデルでは、機動戦は近代戦の第三世代に属し、第一次世界大戦のドイツの浸透戦術(infiltration tactics)に始まり、第二次世界大戦の電撃戦(Blitzkriegを経て、20世紀後半には機動戦に発展したと主張した。

ドイツの糸と機械化の糸は絡み合っていて、多くの米海兵隊員にとってドイツ式の最も理解しやすい例は、第二次世界大戦の機械化された電撃戦(Blitzkriegであった。

ドイツ語の用語は、機動戦の辞書にも入っている。

Schwerpunkt(主戦力、重心)、Auftragstaktik(任務戦術)、Flaechen und Luekentaktik(表面と隙間の戦術)、Fingerspitz- engefühl(指先の感覚)である。(この最後の用語はボイド(Boyd)の好意によるもので、ボイド(Boyd)はプレゼンテーションの中でこの用語を取り上げている)。ドイツの回想録は、機動戦論者の規範を満たした。ロンメルの『攻撃』(Rommel’s Attacks)、フォン・シェルの『会戦リーダーシップ』(von Schell’s Battle Leadership)、グデーリアンの『パンツァーリーダー』(Guderian’s Panzer Leader)、フォン・メレンヒンの『パンツァー・バトル』(von Mellenthin’s Panzer Battles)、フォン・マンシュタインの『失われた勝利』(on Manstein’s Lost Victories)などである。

ティモシー・ルッパー(Timothy Lupfer)のレブンワース論文「ドクトリンの力学: 第一次世界大戦中のドイツ戦術ドクトリンの変遷(The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine during the First World War)」は、ドイツの戦術的革新に関する記述だけでなく、激動の中で教育機関がどの ように根本的な改革を行うかについて述べており、特に新設の米海兵隊大学で大きな影響力を持つこと になった[8]。同様に、ブルース・グドムンドソン(Bruce Gudmundsson )の『突撃歩兵戦術:ドイツ陸軍のイノベーション1914‐1918(Stormtroop Tactics: Innovation in the German Army, 1914‐1918)』は、機動戦の形成期から生まれた学問の中で最も重要な著作のひとつとなった[9]

米海兵隊員の中には、2つの世界大戦で敗れた軍隊から米国人が何を学ばなければならないのかと公然と考えている者もいた。(機動戦論者論文No.4「ドイツからの学び」米海兵隊ガゼット誌2020年12月号、No.5「ドイツ人からの学び その2」米海兵隊ガゼット誌2021年1月号参照)。また、リンド(Lind)が分裂的な人物であったこと(彼はその役割を好んでいたようである)に対する反発もあったのであろう。

第4の糸は、古典的な軍事理論、特にカール・フォン・クラウゼヴィッツと孫子の著作への新たな関心であった。これは、ベトナム戦争で採用されたオペレーションズ・リサーチ手法の否定が主な理由であった。プラグマティストが米海兵隊の戦術を確固たる実践的基盤の上に置こうとしたのに対し、この糸は米海兵隊の思考を確固たる理論的基盤の上に置こうとしたのである。古典的な軍事理論は、他の理論に絡むことはなく、基礎として下に位置するものであった。

グレイ(Gray)は孫子の弟子であることが知られていた。後にFMFM1を著すことになるジョン・F・シュミット(John F. Schmitt)米海兵隊大尉(当時)も孫子派を公言しており、『兵法(The Art of War)』の翻訳本を片っ端から買っては繰り返し読んでいた。

一方、プロイセン人のクラウゼヴィッツは、アントワーヌ=アンリ・ジョミニ(Antoine-Henri Jomini)男爵に代わって戦争理論の第一人者として認められ、物理的ユークリッド主義から人文主義への重要なコンセプト転換(conceptual shift)を反映していたのである。(機動戦論者論文 No.8「機動戦と戦争の原則」米海兵隊ガゼット誌2021年5月号参照)

戦争の本質と理論に関する『用兵(Warfighting』の第 1 章と第 2 章は、基本的にクラウゼヴィッツの理論 を抽出したものである。機動戦運動(maneuver warfare movement)の主要な発言者は、皆、孫子とクラウゼヴィッツの両方に精通していた。

最後の糸は、ジョン・R・ボイド(John R. Boyd)米空軍大佐(退役軍人)の理論的研究であった。ボイド(Boyd)大佐の仕事は、運動の初期には、エッセイ「破壊と創造(Destruction and Creation)」と5時間に及ぶ報告書「紛争のパターン(Patterns of Conflict)」であり、高度に解釈されてはいるが、軍事紛争を広範囲に調査したものであった。

1989 年に『用兵(Warfighting)』が出版されるまでに、ボイド(Boyd)の「勝ち負けに関する言説(Discourse on Winning and Losing」は、「破壊と創造」、 「紛争のパターン(Patterns of Conflict)」、「指揮・統制のための有機的デザイン(Organic Design for Command and Control)」、「?の戦略的ゲームと?(The Strategic Game of ? and ?)」と「啓示(Revelation)」の成熟版を含むまでに拡大していた。(ボイド(Boyd)の作品は、書き下ろしエッセイである「破壊と創造(Destruction and Creation)」を除いては、常に修正を加えているため、決して「完成した(finished)」とは言えないのである。「破壊と創造(Destruction and Creation)」の後、彼は自分の作品を文章にすることを拒否し、ブリーフィング形式で作成したのは、まさにそれを継続的に発展させるためだったというのは有名な話である)。

『用兵(Warfighting)』の時代になっても、ほとんどの米海兵隊員はボイド(Boyd)のプレゼンテーションを経験していなかったが、もし経験していたとしたら、それはおそらく「紛争のパターン(Patterns of Conflict)」であっただろう。

しかし、ボイドの理論(Boyd’s theory)の中心的な考え方である「観察-指向-決心-行動」のループ(OODAループ、ボイド・サイクル(Boyd Cycle)とも呼ばれる)については、少なくとも多くの人が知っていたはずである。

OODA ループは、主に優れたテンポを生み出すという文脈で、発展途上の機動戦理論(maneuver warfare theory)に最も顕著に現れ てきたものである。敵対的環境において行動の自由度を最大化するための適応モデルとしての OODA の広範な考え方は、その後になってようやく出てきたものである。

孫子の『兵法(The Art of War)』、クラウゼヴィッツの『戦争論(On War)』とともに、ボイド(Boyd)の『勝利と負けに関する論議(Discourse on Winning and Losing)』(主に「紛争のパターン(Patterns of Conflict)」と「指揮・統制のための有機的デザイン(Organic Design for Command and Control)」)は、シュミット(Schmitt)が FMFM1 を書く際に参照した第三の一次資料となった[10]『用兵(Warfighting)』は、この3つの著作を合成する試みが主であった。

糸を織り成す:Weaving the Threads Together:

この五つの知的な糸は、主に『米海兵隊ガゼット誌』の紙面上で行われた自己組織的な論議を通じて、一貫した思想体系に織り込まれ始めたのである。しかし、その後、ある時期からボイド理論(Boydian theory)が機動戦(maneuver warfare)の理論的基礎として遡及的に主張されるようになる。

少なくとも 1985 年には、ビル・リンド(Bill Lind)が「機動戦ハンドブック(Maneuver Warfare Handbook)」で「ボイド理論(Boyd Theory)…は機動戦の理論である」と書いている[11]。「ボイド理論(Boyd Theory)」とは、特に OODA ループのことであり、さらに言えば、優れた作戦テンポで敵を凌駕するこ とを指していた。この OODA ループの解釈は、ドイツの電撃戦(Blitzkrieg)の実施に非常によく合致していた[12]

ボイド理論(Boydian theory)を機動戦理論(maneuver warfare theory)の基礎として確立するという考えは、コンセプト的にも政治的にも理にかなっ ていた。ボイドの理論が、コンセプト的に意味があったのは、ボイドの理論(Boyd’s theory)が他の糸を横断していたからである。「紛争のパターン(Patterns of Conflict)」の中でボイド(Boyd)は孫子とクラウゼヴィッツ、世界大戦におけるドイツの方法、機械化された作戦に触れ、彼の理論は他のすべての糸の支援を提供するものであった。

その意味で、ボイド理論(Boydian theory)は他の理論を結びつける自然な糸であった。この考えは政治的にも意味があった。というのも、機動戦を、複数の異質な情報源から有機的に発展させるのではなく、単一の強固な出発点から論理的かつ首尾一貫して発展するものとして描くことで、ナラティブを強化することができたからである。

ボイド理論(Boydian theory)が機動戦理論(maneuver warfare theory)の理論的基礎としてリバース・エンジニアリングされたことを示唆することによって、ボイド(Boyd)の貢献が重要であったことを軽視するつもりはなく、むしろボイドの理論(Boyd’s theory) が機動戦の唯一の起源でなかったという点を再確認するものである。集団的なグループを代表するほとんどの思想体系(systems of thought)と同様に、機動戦の発展はそれよりもはるかに複雑なものであった。

ジョン・ボイド(John Boyd)米空軍大佐の理論は、米海兵隊の機動戦の発展において、一つの基本的な「糸(thread)」を提供した。(写真:「ボイド:ロバート・コーラムによる戦争の芸術を変えた戦闘機パイロット」リトル、ブラウン・アンド・カンパニー、2002年、ISBN-10:0316881465から)

キー・プレーヤーThe Key Players:

機動戦理論(maneuver warfare theory)の発展に知的貢献をした米海兵隊員やその他の人々は、数え上げればきりがない。しかし、比較的少数の人々が、機動戦のドクトリンとなる糸を引き合わせる役割を担った。

機動戦理論(maneuver warfare theory)に興味を持った現役米海兵隊員の先輩として、アル・グレイ(Al Gray)米海兵隊大将が基本的な役割を果たしたのは明らかである。グレイ(Gray)はダイナミックなリーダーであり、彼自身が知性的であったため、志を同じくす る他の米海兵隊員を彼の軌道に引き付けた。グレイ(Gray)は他の機動戦論者にトップカバーと機会を提供した。

さらに、グレイ(Gray)の指揮する第2海兵師団での集中的な実験期間は、機動戦の理論と実践を発展させ、米海兵隊に機動戦論者を普及させるために重要であった。

人脈作り、人やアイデアの引き合わせの多くは、ワイリー(Wyly)とリンドによって行われた。この間、リンドは機動戦のたゆまぬ普及者であっただけでなく、機動戦に反対する多くの人々のターゲットとなり、彼を苛立たせた。1970年代後半、ワイリー(Wyly)はクアンティコの水陸両用戦学校の戦術教官長に任命され、ビル・ウッズ(Bill Woods)米海兵隊大尉は彼の生徒の一人であった。

ワイリー(Wyly)とリンドの出会いは、当時教育司令部長のバーナード・トレイナー(Bernard Trainor)米海兵隊少将が、米海兵隊を批判する文章を書いていたリンド(Lind)を、ワイリー(Wyly)の水陸両用戦学校の演習の見学に招いたことに始まる(ベトナム戦争後の改革を推進したバーナード・トレイナー(Bernard Trainor)の役割は、相応に評価されていない)。リンド(Lind)の訪問は、ワイリー(Wyly)との数年にわたる協力関係の始まりであり、彼は1985年にワイリー(Wyly)の『機動戦ハンドブック(Maneuver Warfare Handbook)』を共同執筆している。

リンドは(Lind)、ワシントンDCの軍事改革議員連盟のメンバーで、ボイド(Boyd)の仕事ぶりは、ボイド(Boyd)が現地で行ったブリーフィングで既に知っていた。そのリンド(Lind)が、ボイド(Boyd)とワイリー(Wyly)の間を取り持った。ワイリー(Wyly)はボイド(Boyd)をクワンティコに連れてきた。その後、ボイド(Boyd)は、アル・グレイ(Al Gray)という米海兵隊准将(brigadier general)が、ペンタゴンでボイド(Boyd)の「紛争のパターン(Patterns of Conflict)」についてのプレゼンテーションを聴き、非常に興味を持っているようだとワイリー(Wyly)に話した。

水陸両用戦学校を卒業したビル・ウッズ(Bill Woods)米海兵隊大尉は、グレイ(Gray)が司令官を務める第2海兵師団に配属された。ワイリー(Wyly)は、ビル・ウッズ(Bill Woods)にグレイ(Gray)と連絡を取るように指示し、グレイ(Gray)とワイリー(Wyly)は連絡を取り合うようになった。こうして、この重要なループは閉じられた[13]

米海兵隊機関誌「ガゼット」の役割:The Role of the Marine Corps Gazette:

1970年代から80年代にかけての10年間、米海兵隊員は『米海兵隊ガゼット誌』の紙上で、こうしたさまざまなアイデアの是非を率直に、時には乱雑に論じ合ったのである。この議論は、「機動戦論者(maneuverists)」側に主張の強化や論理の整理を迫るという重要な機能を果たしていた。

当時の『ガゼット』編集長、ジョン・グリーンウッド(John Greenwood)退役米海兵隊大佐の役割は、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。グリーンウッド(Greenwood)は早くから機動戦に個人的な関心を寄せていたが、彼の最も重要な貢献は、自由で開かれた議論の場を確保することであった。グリーンウッド(Greenwood)は生来の扇動者の気質があり、当時のガゼット誌の編集方針は、現状に疑問を呈する記事を支持するものであった。

米陸軍のプロセスとの比較:Compared to the Army Process:

また、米陸軍は 1970 年代から 80 年代にかけて、エアランド・バトル(AirLand Battle)のドクトリンを開発するための審査と社会化のプロセスを実施した。米陸軍のプロセスは立派にトップダウンで整然としたものであった。新しいドクトリンを開発する責任は米陸軍訓練ドクトリン・コマンドにあり、そことさまざまな専門学校にワーキング・グループが設置され、新たなアイデアを検討した。

そして、そのアイデアを米陸軍内で広く吟味するために、パンフレット525シリーズのような公式のドクトリン化される前の文書(pre-doctrinal documents)として発表された。

これに対して、米海兵隊のプロセスは、『アニマル・ハウス(Animal House』のカフェテリアのフード・ファイトのシーンに似ていて、リンド(Lind)がブルートの役で出てくるようなものだった。これは、米海兵隊の分裂と対立の文化を考えれば、おそらく誰も驚かないはずである。

※『アニマル・ハウス』は、1978年に公開されたアメリカのコメディ映画。(https://en.wikipedia.org/wiki/Animal_House)

しかし、結果は同じで、1982 年の「フィールド・マニュアル 100-5 作戦(FM 100-5, Operations」にせよ、「艦隊海兵隊マニュアル 1 用兵(Fleet Marine Force Manual 1, Warfighting」にせよ、主要なドクトリン・マニュアルが出版される頃には、それぞれの軍種で広く支持されるようになっていた。確かに、すべての米海兵隊員がFMFM 1に賛成したわけではないが、自分たちの意見を言う機会が与えられていなかったと主張する人はいない。

用兵(Warfighting』と継続する機動戦理論の進化Warfighting and the Continued Evolution of Maneuver Warfare Theory:

1989 年、グレイ(Gray)の下で第 2 海兵師団の小隊長を務めていたジョン・F・シュミット(John F. Schmitt)米海兵隊大尉が、様々な糸をしっかりとした文書に体系化したが、その時点ですべてのピースが揃っていた。特に、『用兵(Warfighting』では、理論を純粋な作戦コンセプトにとどまらず、戦場での機動戦の遂行を支援するために必要な制度にまで拡大した。

シュミット(Schmitt)は 1997 年にチャールズ・C・クルラック(Charles C. Krulak)米海兵隊大将のために『用兵(Warfighting』を米海兵隊ドクトリン文書(MCDP)1 として改訂したが、このマニュアルは本質的には何も変わらなかった。控えめな変更点は主に2つあった。1 つは、FMFM 1 の出版直後にシュミット(Schmitt)に電話をかけてきたボイド(Boyd)の意見を取り入れたことである。

もう一つは、シュミット(Schmitt)が戦争の予測不可能な非線形力学(unpredictable, nonlinear dynamics of war)を説明するのに役立つと考えた複雑性理論(complexity theory)を取り入れることであった。(機動戦論者論文 No.3「機動戦を支える動的な非線形科学」米海兵隊ガゼット2020年11月号参照)

1997 年以来、公式ドクトリンが更新されていないにもかかわらず、機動戦理論(maneuver warfare theory)が進化し続け ていることは驚くには当たらない。特に 1997 年にボイド(Boyd)が死去し、その後いくつかの伝記や他の著作が出版されて以来、ボイド(Boyd)を機動戦理論(maneuver warfare theory)の神託者とする考え方は時とともに顕著になってきている。

しかし、「紛争のパターン(Patterns of Conflict)」や「指揮・統制のための有機的デザイン(Organic Design for Command and Control)」だけでなく、その後のより抽象的なブリーフィングも含めて、彼の理論に多くの米海兵隊員が親しむようになり、機動戦理論(maneuver warfare theory)自体もボイド的(Boydian)になった。死の直前に彼の研究成果を5枚のスライドにまとめた『勝利と負けの本質(The Essence of Winning and Losing)』(ボイド自身が「究極の圧縮(The Big Squeeze)」と呼んだプロセス(OODAループ))を含む。

機動戦理論(maneuver warfare theory)は、ボイド(Boyd)の影響力が強まったことと、米海兵隊が10年以上にわたるアフガニスタンやイラクでの対反乱作戦(counterinsurgency operations)など、幅広い作戦状況に適応させ続けたこともあり、年々抽象化され続けている。

このような進化にもかかわらず、機動戦理論(maneuver warfare theory)はこれまで、その原点である知的な糸に忠実であり続けた。米海兵隊ガゼット誌上で機動戦論者のシリーズを始めるに当たっての重要な問題は、機動戦が今後も適切であるかどうかということである。

我々は、米海兵隊が任務戦術(mission tactics)へのこだわりを持ち続けることで、先端技術による集権化された指示型の指揮・統制(centralized, directive command and control)を目指す現在の流れに逆らうことになると主張した(機動戦論者論文 No.12、「分権化について」米海兵隊ガゼット2021年9月号)。また、機動戦と遠征前進基地作戦(EABO)の間に断絶があることを提案した(機動戦論者論文 No.19、「遠征前進基地作戦(EABO)」米海兵隊ガゼット2022年4月号)。

また、反対意見もある。機動戦がドクトリンとなってから30年、米海兵隊は今後の戦いの本質と遂行に関する見解について話し合う時期が来ていると考えている。機動戦論者がそのきっかけになればと願っている。いずれ分かることだろう。

ノート

[1] Ian T. Brown, A New Conception of War: John Boyd, the U.S. Marines, and Maneuver Warfare, (Quantico: Marine Corps University Press, 2018).

[2] 1stLt Stephen W. Miller, “Camouflage and Deception,” Marine Corps Gazette 59, no. 12 (1975). As quoted in A New Conception of War.

[3] A New Conception of War.

[4] Phone conversation between author and G.I. Wilson on 23 June 2022; and LtCol Gary W. Anderson, “Enemy-Oriented Operations, What Makes Them Hard?”, Marine Corps Gazette 73, no. 6 (1989).

[5] William Lind, “Only a Beginning,” Marine Corps Gazette 63, no 10 (1979).

[6] Capt Ronald C. Brown, “Winning Through Maneuver,” Marine Corps Gazette 63, no. 12 (1979).

[7] For example, William S. Lind, Maneuver Warfare Handbook (Boulder: Westview Press, 1985); and Capt John F. Schmitt, “Understanding Maneuver as the Basis for a Doctrine,” Marine Corps Gazette 74, no. 8 (1990).

[8] Timothy T. Lupfer, The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine during the First World War (Fort Leavenworth: Combat Studies Institute, 1981).

[9] Bruce I. Gudmundsson, Stormtroop Tactics: Innovation in the German Army, 1914–1918, (New York: Praeger,1989).

[10] Boyd was incommunicado while fighting cancer during much of 1989 when Schmitt wrote Warfighting, so Schmitt had access to Boyd’s briefing slides but not to Boyd himself.

[11] Maneuver Warfare Handbook.

[12] Ibid.

[13] Phone conversation between author and Michael D. Wyly on 11 July 2022.