21世紀の三つ巴の闘い(Dreikampf):機動戦の課題 Maneuverist #16
米海兵隊機関誌(Marine Corps Gazette)の機動戦論者論文(Maneuverist Paper)として紹介してきた16番目の論文「21st Century Dreikampf: Challenges for Maneuver Warfare」(2022年1月号)を紹介する。
戦争や紛争を理解する時、米海兵隊のドクトリン「用兵(Warfighting)」では、「敵対的で、独立した、和解できない二つの意志の間の激しい闘争は、それぞれが力で相手に押し付けようとする」という、戦争の本質的な定義から始まる、と説いている。
2020年12月掲載の「動的な決闘・・・問題の枠組み:戦争の本質の理解Maneuverist #2」では、作戦環境の複雑性が増している今日では、固定的な二者間の闘争としてみることは、相応しくなく、決闘(Zweikampf)の動力学の力によって、それぞれがお互いに自分自身を押し付けようとしている、独立した、敵対的な、そして和解できない意志の間の衝突として理解することを説いていた。
2021年3月掲載の「三つ巴の闘い(Dreikampf)の紹介 Maneuverist #6」では、最近の歴史的な作戦経験から、敵対者との二者間では語れない住民を含んだ「三つ巴の闘い(Dreikampf)」モデルを提唱していた。
ここで紹介する16番目の論文では、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」モデルの単純な適応だけでは対応できない事象を念頭に、現地で敵対者となるかどうかは断定できない場合が多く、このような環境下では戦略を事前に策定することも難しく、ましてや現地での戦術と上位の戦略との整合性の課題が生起すると指摘している。米海兵隊のドクトリン「用兵(Warfighting)」改定においては、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」で直面しなければならない課題の解決につながることを期待しているとも受け取れるものである。
ちなみに、これまで紹介してきた米海兵隊が戦いのコンセプトとして受容している機動戦(maneuver warfare)についての論文は、次のとおりである。
機動戦の特徴を論じたものとして
1番目の論文「米海兵隊の機動戦―その歴史的文脈-」、
2番目の論文「動的な決闘・・・問題の枠組み:戦争の本質の理解」、
3番目の論文「機動戦の背景にある動的な非線形科学」
米海兵隊の機動戦に大きく影響を与えたといわれるドイツ軍に関する文献として
4番目の論文「ドイツからの学び」
5番目の論文「ドイツ人からの学び その2:将来」
戦争の本質や機動戦に関わる重要な論理として
6番目の論文「三つ巴の闘い(Dreikampf)の紹介」
7番目の論文「重要度と脆弱性について」
8番目の論文「機動戦と戦争の原則」
新たな戦いのドメイン(domains of warfare)への機動戦の適用の例として
9番目の論文「サイバー空間での機動戦」
機動戦を論じる上で話題となる代表的な用語の解釈の例として
10番目の論文「撃破(敗北)メカニズムについて」
11番目の論文「殲滅 対 消耗」
機動戦で推奨される分権化した指揮についての
12番目の論文「分権化について」
情報環境における作戦(Operations in the Information Environment)を念頭に置いた
13番目の論文「情報作戦と機動戦」
作戦術を機動戦の関係性を説いた
14番目の論文「作戦術と機動戦」
機動戦における重点形成を説いた
15番目の論文「主たる努力について」
時間が許せばご一読いただきたい(軍治)
21世紀の三つ巴の闘い(Dreikampf):機動戦の課題
21st Century Dreikampf: Challenges for Maneuver Warfare
「三面の闘争(three-sided struggle)」を理解することは、機動戦の現代的な応用の鍵である。 (写真提供:サマンサ・バラハス(Samantha Barajas)米海兵隊下級伍長) |
Maneuverist Paper No. 16
by Marinus
「人間の営みの中で、戦争は最もカード・ゲームに似ている」 [1]
-カール・フォン・クラウゼヴィッツ
「テーブルに着いて30分でカモを見破れないなら、あなたがカモである」[2]
-1998年の映画『ラウンダーズ』でのマイク・マクダーモット
Maneuverist No.2 (米海兵隊機関誌2020年10月号) は、MCDP 1「用兵(Warfighting)に基づき、「決闘(Zweikampf:二つの闘い)」を戦争に不可欠な力学として議論した。Maneuverist No. 6(米海兵隊機関誌2021年2月号)は、交戦国のいずれからも独立した利益を追求する集団が存在する場合、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」または、「三者の闘争(three-struggle)」を全く別の階級の戦争とみなすに十分な差異として提案している。
本稿では、この「三つ巴の闘い(Dreikampf)」の意味するところをより深く掘り下げていく。「三つ巴の闘い(Dreikampf)」を理解する鍵は、人口の一部(segments of the population)が軍事的に他の二者を打ち負かすことに関心があるのではなく、それらの独立した利益を追求するための行動の自由に関心があるに過ぎないということである[3]。このことをどのように理解すべきなのか、そしてこの理解は、我々がこの問題に対して何をすべきなのかを教えてくれるのだろうか。
我々は、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」における人口は、一元的な存在ではなく、多数の派閥で構成される可能性が高いことを認めた。我々は、人口の一部(segments of the population)が、そうすることが好都合なときには共通の目的のために結束し、そうでないときには独立して行動する傾向があることを示唆した。古典物理学でいうところの「二体問題(two-body problem)」から「三体問題(three-body problem)」への移行は、課題の複雑さを指数関数的に増大させ、全体としてみれば相対的に解決不可能なものになる、という点を我々は議論してきた。
このため、紛争は部分的に解決可能なのか、断片的に解決可能なのかという疑問が生じる。このような問いを立てることは、このような状況において戦略と戦術を調和させることの難しさを浮き彫りにする。ここでは、なぜこのようなことが起こるのか、また、現在の海兵隊のドクトリンに反映されている機動戦理論に「三つ巴の闘い(Dreikampf)」がどのような課題を投げかけているのかを説明することを狙いとしている。アフガニスタンとイラクにおける20年にわたる21世紀の「三つ巴の闘い(Dreikampf)」の経験を踏まえ、将来の課題に対処するためにどのようなドクトリンの変更があり得るかを検討することが適切であろう。
多面体としての人口:The Population as Many-Sided
対反乱戦において人口を重心とする統合ドクトリンの概念は、少なくとも力の源泉となる単一の存在を示唆している[4]。しかし、人口を断片化した存在とする考え方に敏感な者もいる[5]。組織的暴力につながる複雑な利害関係の多言語を話す人口いう概念は、実は前近代的な現象である。
実際、ウェストファリア条約以前には、さまざまな主体が戦争をしていた。家族も戦争をしたし、氏族や部族も戦争をした。民族や人種も戦争をした。宗教も文化も戦争をした。企業や暴力団もそうである。これらの戦争は、しばしば両面ではなく多面的であり、同盟関係は絶えず変化していた。多くの異なる主体が戦争を行っただけでなく、多くの異なる手段を用いた。戦争になると、陸でも海でも傭兵を雇うことがよくあった。
また、部族間の戦争などでは、武器を携帯できる年齢で、かつ年齢が高くない男性が「軍隊」とされた。・・・戦役や会戦に加えて、戦争は賄賂や暗殺、裏切り、背信、王朝間の結婚によってさえも行われた。「民間人」と「軍人」、犯罪と戦争の境界線は曖昧であるか、存在しないかのどちらかであった。多くの社会は内部の秩序や平和をほとんど知らない。武器を持った男たちの一団は、戦争のために雇われなければ、抵抗できないほど弱い者から欲しいものを何でも奪い取るだけであった。ここで、過去は序章である[6]。
このような環境での紛争は単に軍事的な問題ではなく、基本的に政治的、社会的、文化的な問題であるため、軍事的な解決策を「作戦可能なもの」することは困難である[7]。軍事作戦のアプローチは、単なる “satisficing”※と考えるべきだろう[8]。つまり、民衆の暴力につながる核心的問題を必ずしも解決しないが、その代わりに、他の非軍事的な圧力を有効に発揮できるようになるまで、友軍や中立の非戦闘員に加えられる暴力のレベルを下げるような現地対応を適用することである。
※satisficeとは、目的を達成するために必要最小限を満たす手順を決定し、追求することを意味する。
このような紛争で「塀の外」で活動した経験があまりない我々にとって、銃を撃ってくる人たちを、単純化しすぎた「我々対彼ら」の「決闘(Zweikampf)」パラダイムで悪者と考えるのは自然な傾向である。たとえそのような特性が正確でない場合でも、「反乱軍」「反政府軍」というラベル付けすることは容易である。しかし、軍事的及び物理的な安全保障任務や考え方を考えれば、そのように扱う方が簡単な場合もある。あなたがハンマーしか持っていなければ、撃ってくる相手は誰でも釘に見える[9]。トルコの特殊部隊将校であるメティン・グルカン(Metin Gurcan)は、このような傾向があると書いている。
事件を反乱軍の3人のプレイヤーによるゲームに単純化しすぎ、あらゆる細部を取り除く癖があるため、意図しない結果(その第一は、ゲーム内の他のすべての力学を過小評価すること)につながる可能性があるのである。… 農村部におけるアフガニスタンの政治はすべて現地のものであり、現地レベルの多くの事件において、対反乱作戦(COIN)部隊はゲームの対象であるというよりも、むしろゲームの主体である。… 環境を形成し、反乱軍と対反乱作戦(COIN)部隊の戦いを適切に利用したのは、現地政治の行為主体たちであった。・・・多くの事件では、闘いは、したがって、現地政治の行為主体の間で、それは我々がメディアでそれを読んで見て、反乱軍と対反乱作戦(COIN)部隊の間の闘いではないことを意味している[10]。
グルカン(Gurcan)の本には、こうした部族的な農村や住民の中のムスリムの知覚が、アフガニスタン戦争でどのように作用したかを示す個人的な逸話がたくさん出てくる。米国の対反乱戦のドクトリンは、紛争の原因を理解しなければならないと主張する。しかし、本当はそれではニュアンスの異なる複雑さを正しく理解することはできない。グルカン(Gurcan)もこれに同意するが、「事件に対処する際には、誰が何の目的のために誰を利用しているのかを正確に分析することが最も重要である」と、よりニュアンスの異なる指摘をする[11]。
米軍の場合、外国人という立場(鏡像傾向が強い)と軍隊のローテーション政策を考えると、これは言うは易く行うは難しである。何が原因で相手が撃ってきたのかが分からないとき、我々は相手が脅威であり、無力化しなければならないと認識すれば十分だと自分に言い聞かせる。そのため、戦略的な背景や理由を無視した-悪い戦術につながる-戦術的な行動によって、この最終目的を自然に追求することになる[12]。
人口の到達目標は現地のものであるが、必ずしも政治的なものではない:Population Goals Are Local, But Not Always Political
戦争におけるすべての組織的暴力が-局所的な意味においてでさえも-政治的到達目標を持つわけではない。1991年にマルティン・ファン・クレヴェルド(Martin van Creveld)が示唆したように、戦争の暴力そのものが単なる最終目的のための手段ではなく、最終目的である可能性が非常に高い。彼は、死の危険があっても、闘いの喜びをそれ自体の報酬として求める者を抑止できないだろうと主張している[13]。現在、我々が理解しているように、自己過激化したジハード主義者は、テロ行為に失敗して逮捕されたり死亡したりすることさえも、個人の救済行為として、個人の宗教的信仰と献身の証としているのである[14]。
しかし、これだけでは済まされないことがある。反乱や内戦では、公安制度は通常、弱いか完全に無力である。この状態は、個人、家族、氏族、部族、その他の集団が、反乱や反抗の目的以外のさまざまな目的で武装強圧手段を追求する許可を与えることになる[15]。実際、このような暴力に巻き込まれた人々は、それぞれの側が何のために闘っているのかを知らず、紛争全体の原因が何であるのかを特定することさえできないほどである[16]。
これは、スタティス・カリバス(Stathis Kalyvas)が、米国独立戦争から2005年時点のイラク戦争まで、反乱と内戦を扱った壮大な著書『内戦の論理(The Logic of Civil War)』で述べているように、単に21世紀的な現象というわけではない。このことは、人類の歴史において常にそうであった。
残念ながら、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」の人間の要素を理解する上で、このような細かい詳細は、現地の状況に日々接している小隊長や中隊長の理解を超えて、どうしても抜け落ちてしまう[17]。グルカン(Gurcan)は、アフガニスタンで生成された報告は、全体的な戦略や作戦に関するものであり、現場で起こっている定量的な事実を超えて、戦術的な事件で実際に何が起こっているのかについては、ほとんど触れていないと嘆いている[18]。
これは、20世紀半ば以降の米国が、非正規戦の作戦環境における観察項目の詳細な定量化を好み、全体的な理解を歪めずにはいられない一般的な傾向分析を通じて、詳細な洞察が存在することを洗い流してきたことを考えれば、当然のことであろう。このような分析の聴衆は通常、軍の上級将校や政府の文官であり、目まぐるしく変化する現地のニュアンスを吸収する時間はほとんどないことを考えれば、これは予想されることである[19]。
戦略と戦術の連動性の解消:Dissolving Linkage Between Strategy and Tactics
その結果、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」環境での作戦では、戦略から戦術、戦術から戦略が切り離され、それらを結びつけることを意図したキャンペーンや作戦とは無関係に、実践されることになった[20]。イラクとアフガニスタンでは、首都の政府ビルを誰が占拠していようと、権力にある者を憎むか、国や州の政府を一切認めない人々を相手にする場合、バグダッドやカブール政府の正統性に関する戦略枠組みの前提が役に立つとは思えなかった[21]。
このような人たちがどのように行動し、反応するかは、はるかに差し迫った地域の問題が支配していた。一方、陸軍のある上級将校は、現場レベルでの戦術の優位性が戦略的な指針や考察から切り離されているように見えると嘆き、対反乱戦において「米軍の新しい戦争の方法では、戦術、すなわち『方法』の実行が戦略を完全に凌駕してしまった」と書いている[22]。
実際、戦略は実行者に起きていることとほとんど関連性がないことが多いので、そうせざるを得ないように思われた[23]。一方、ある将校がアフガニスタンのペーチ渓谷で起こったことを説明したように、戦略的な根拠を持たない戦術が適用されることもしばしばあった[24]。
ブレット・A・フリードマン(Brett A. Friedman)はその最新作で、こうした周囲の状況(circumstances)やその他の状況において、構成要素としての戦争の作戦レベルが戦略を戦術に結びつける上でほとんど役立たない理由を論じている[25]。彼は、以前の著者を要約して、戦術は実際には直線的な問題解決を反映するのに対し、戦略は非線形のアプローチを必要とし、作戦レベルにはこの2つの全く異なるものの橋渡しをする論理的空間は存在しない、と観察している[26]。
作戦術は、基本的に戦術と同じ論理で、より大きなスケールの線形のアプローチをとるか、あるいは戦略の非線形性を反映し、戦略そのものの一部となるかのどちらかである[27]。我々の戦争理論は、戦略、作戦術、戦術のいずれを扱うにせよ、戦争は一般に混沌と非線形であると主張しているため、この主張には同意しない[28]。しかし、他の軍種、統合コマンド、および他の米国防総省(DOD)と外部組織が戦争を同じように見ていない可能性があることは容易に認める。このことは、戦略と戦術が切り離されているという問題の一因になっているのではないだろうか。
「三つ巴の闘い(Dreikampf)」では、局所的な「三体問題」をより理解しやすい「二体問題」に変えるという自ら招いた圧力が、線形問題解決アプローチにより適合するように、環境を不正確に単純化しすぎている。フリードマン(Friedman)によれば、このような視点は、戦役や作戦を計画策定し、遂行する軍事指導者たちにも共通しており、非線形な戦略の複雑さに揉まれながらも、それを無視することを選択することに呼応している。
戦術的な問題に対処する際に、単純化された「我々対彼ら」のメンタル・モデルから外れた現地の混沌を、戦役や作戦において正確な形で一般化し、タイムリーに戦略に反映させることは非常に困難であると言えるだろう。作戦指揮官は、より広い地域でより長い期間にわたって起きていることを観察し、分析する際に、グルカン(Gurcan)の単純化しすぎたパラダイムに立ち戻るため、現地のニュアンスが全体として失われるのが普通である。
作戦術は、誰が、何を、どこで、いつ闘うか、また、闘うことを拒否するかを考えるためのものであるとすれば、戦役や作戦を計画策定し遂行する際にこのような認知的目隠しをすることは、よくても役に立たず、最悪の場合、完全に誤解を招くことになる[29]。
実際、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」では、今日反対している人たちの一部が明日は反対しないかもしれないのに、戦術的に敵を倒すとはどういう意味か?来週はまったく別の問題で我々に反対するかもしれない?自分たちの個人的な目標を達成するために暴力的な代理人として我々を使ったり、自分たちの家族、一族、部族の利益のために我々の財源や物質的援助を熱心に求めたり、受けたりして、我々に協力する人々はどうだろうか?
間違った場所で、間違ったタイミングで、間違った相手と、間違った方法で闘うことは、最初は我々に敵対しようと思っていなかった相手にも、その後、敵対するように仕向ける可能性があるのである[30]。米国人は、戦術的な意思決定から政治的な配慮を排除しようとする傾向があるが、これは「三つ巴の闘い(Dreikampf)」の論理とは相容れず、最終的には逆効果になる。
この記事の冒頭で、カード・ゲームに関する二つの名言を紹介した。クラウゼヴィッツが示唆するように、戦争がカード・ゲームに似ているとすれば、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」の紛争は、我々に多くの質問を投げかけることを要求しているのである。テーブルには何人のプレイヤーが座っているのか?参加者は同じカードの山で何種類のゲームをしているのか。ポーカー?もしそうなら、どんなゲーム?それともブリッジ?ラミー?ハーツ?それともスペード?ゲームの合間や、もしかしたらハンドやラウンドの最中に、ある種類から別の種類に変えているのだろうか?そして、おそらく最も重要なことは、我々はテーブルのカモなのだろうか?そして、どうすれば、効果的な行動をとるために、これらのことを前もって知ることができるのだろうか?事前に知ることは可能なのだろうか?
現行海兵隊ドクトリンの課題:Challenges to Current Marine Corps Doctrine
この最後の質問は、我々が「三つ巴の闘い(Dreikampf)」で直面しなければならない課題を理解するために、我々の機動戦のドクトリンを見てみる良いきっかけとなる。確かに、いわゆる敵や自国の利益を追求する人々など、外側に焦点を当てることは重要であるが、軍事的な文脈だけでなく、社会、文化、政治/法律、経済、および関連する文脈も理解しなければならないため、より難しくなっているのである。
MCDP2「インテリジェンス(Intelligence)」にあるように、「何が(インテリジェンスや情報に)関連があり、何がないかを事前に知ることは非常に難しいかもしれない」[31]。我々は、我々を脅かす物理的な戦力にもっと注意を払いがちであるが、21世紀の戦いの本質は、情報を含め、実質的にあらゆるものが兵器化できるということである[32]。
従来、インテリジェンスは敵対者の潜在能力や実戦能力を把握することを優先してきたが、それは後者の評価が困難だったからである[33]。しかし、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」環境では、潜在的な敵対者すべての意図を少なくとも同等に(間違いなくそれ以上に)重視しなければならない。
このような設定では、多様な行為主体(polyglot array of actors)が拡散し、曖昧になるため、学習のスピードが最も重要に思えるかもしれないが、そのために正確さが犠牲になれば、適応を間違った方向に、しかも急速に導くことになりかねない。脅威をいち早く察知し、先制して無力化することに注力するのは当然のことである。しかし、これらはより大きな文脈の中で理解されなければならない。特に、一方または複数の側が「我々をカモにする」ために、我々がすべきでない方法で他者と関わるよう説得したり、より広い紛争での我々の目標支援とは無関係な、純粋にローカルな復讐のための執行機関となるような状況を作り出している場合は、なおさらである[34]。
このような状況下で、現地での十分な状況なしに物理的な脅威を発見、理解、評価することが困難であることを考えると、戦闘力に関する道徳的、精神的な要素を掘り下げることは不可欠である。「三つ巴の闘い(Dreikampf)」環境におけるこれらの要因の調査において、どのように質問を組み立てるかが重要である。
「誰が我々の側で闘うことを望んでいるか、さもなければ我々を支持しているか?」という問いは、「誰が我々に反対するために死ぬことを望んでいるか、そしてその理由は?」という問いほど洞察力に欠けるかもしれない。我々はこれまで、評価における人間の意志の相互作用を理解するためのコンセプト上の手法を欠いていたが、現在では利用可能な分析的な枠組みがある[35]。
道徳的な要因が衝突する中で、戦場を支配するという従来の考え方は逆効果になる可能性が高い。なぜなら、この考え方は他者に我々の資源を彼らの最終目的のために使うことを促し、それぞれの理由で我々の目的に反する行為主体を増加させる可能性があるからである。我々は、万華鏡のような政治情勢の中で競合する一派として知覚されており、あらゆる方面で他者の視線と潜在的な知覚を意識しなければならない。
近隣、戦術、そして国家レベルの戦略的リーダーシップ、企業の重役、グローバル・メディア、世界中の一般大衆、国際組織など、より高いレベルでの優先順位の間に緊張が生まれるだろう。我々は、誰かが我々を倒すために少年ダビデを探し、見つけることがないように、巨大なゴリアテを出現させる余裕はないのである[36]。
指揮、インテリジェンス、通信の分権化がより一層必要になってくる。「戦略的伍長(strategic corporal)」という言葉は、本質的な訓練と教育によって裏打ちされなければならないし、おそらく、高齢化がもたらすかもしれない、より大きな成熟が必要である。インテリジェンスおよび指揮・統制(C2)通信は、指揮官や参謀だけでなく、より広く深く共有されなければならない。それは、決心と行動の地点で、それがどこであろうと容易に利用でき、現地の問題を自分たちの手で解決する人に情報を提供しなければならない。
見積りや関連する計画・命令が陳腐化したときに、効果的に作戦するための適切な指針を提供するための指揮官の意図を策定することは、より必要であると同時に、その枠組みや表現がより困難になる。
最後に、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」にしばしば見られる戦略的なものと戦術的なものの断絶を調整することは、その原因が何であれ、意思決定においてより厳しい道徳的勇気が必要とされるであろう。戦略的指針(strategic guidance)が現地の状況と相容れない場合、現地の指導者たちは、短期的なコストと利益のトレードオフと長期的な結果の間で決断を迫られることになる。
全員を無事に帰国させたいという理解できる願望が、指揮官達の間で、6人で運ぶより12人で判断したほうがいいという既定路線を助長しがちだ。我々は、曖昧で不確実な状況下でリスクを取るために、部下にもっと自由裁量権を行使できるよう、もっと力を与える必要がある。
上級指導者にとっては、特に他の軍種および統合戦術・作戦本部で戦争の本質に対する知覚が異なることを考えると、「三つ巴の闘い(Dreikampf)」環境において米海兵隊の機動戦を行使し、防衛するためには、より高いレベルの指揮官でより大きな道徳的勇気が必要となる可能性がある。このことは、少なくとも指揮系統の最高レベルやさまざまな米国政府機関内にまで及ぶだろう。
ノート
[1] Carl von Clausewitz, On War, ed. and trans. Michael Howard and Peter Paret, (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1976).
[2] Nathan Williams, “The 105 Best Poker Quotes of All Time,” Black-Rain79 Micro Stakes Poker Strategy (blog), (n.d.), available at https://www.blackrain79.com.
[3] ウェスリー・モーガン(Wesley Morgan)著『最も困難な場所:アフガニスタン・ペシ渓谷を漂流する米軍(The Hardest Place: The American Military Adrift in Afghanistan’s Pech Valley)』 (New York, NY: Random House, 2021)。著者は、2018年にアフガニスタンに7回目の派遣をした准将の言葉を引用している。「世界やアフガニスタンで物事が変化するのと同じくらい、クナール(州)はある種、グループや同盟のこのモザイクのままだ」
彼は続けて、当時の「三つ巴の闘い(Dreikampf)」について述べている。「長い間、互いに戦ってきたタリバンと政府軍は、すでに相互の敵であるイスラム国に対して静かに協力していた」と述べ、「クナールだ…. 人々や集団はワッフルやフリップフロップをし、味方を交換し、短期的には必要なことをするが、長期的にはあまり変わらないだろう」と准将は観察している。
[4] 米国統合参謀本部、統合出版物5、統合作戦計画策定、(ワシントン DC: Government Printing Office, 2011)。このページの段落6.e.(1)は、”不正規戦環境では、敵と友軍の重心(COG)はおそらく同じ人口になる」で終わっている。さらに、ある分析ではこの発想に誤りがあり、人口の中に多くの重心を特定する方法を提案し、重心(COG)と関連する重要要因分析を希釈している。ピーター・R.マンスール(Peter R. Mansoor)大佐(退役)とマーク・ウルリッヒ(Mark Ulrich)中佐、「ドクトリンと行動を結びつける:新たな対反乱作戦の重心分析(Linking Doctrine to Action: A New COIN Center-of-Gravity Analysis)」Military Review, (Fort Leavenworth, KS: Army University Press, September-October 2007)を参照。
[5] ビル・リンド(Bill Lind)はその点を強調するために、複数の戦闘(Vielkampf)、または多くの闘争(many struggle)という言葉を提唱している。ビル・リンド(Bill Lind)著「編集者への手紙(Letter to the Editor)」Marine Corps Gazette, (Quantico, VA: July 2021).
[6] William S. Lind and Gregory Thiele, (Draft) FMFM-1A Fourth Generation War, (2009), available at https://globalguerrillas.typepad.com. See also Michael Vlahos, “Fighting Identity: Why We Are Losing Our Wars,” Military Review, (Fort Leavenworth, KS: Army University Press, November–December 2007).
[7] Ibid.
[8] ハーバート・A・サイモン(Herbert A. Simon)「合理的選択と環境の構造」Psychological Review, (Washington, DC: American Psychological Association, 1956):「明らかに、生物は「satisfice」するのに十分な適応をするが、一般に「最適化」することはない」
[9] 『最も困難な場所:アフガニスタン・ペシ渓谷を漂流する米軍(The Hardest Place: The American Military Adrift in Afghanistan’s Pech Valley)』で、著者はこう書いている。「しかし、統合特殊作戦コマンド(JSOC)が彼の出国から5年以上経った今でも 無人機で殴り続けており、彼の派遣中にはアフガニスタンに存在さえしなかった集団をターゲットにしていることは、彼にとって叩くべき釘を求めるハンマーの新たな事例のように思えました」と。
[10] メティン・グルカン(Metin Gurcan)著「アフガニスタンで何が失敗したのか?:部族化した農村とムスリム環境における対反乱戦の取り組みを理解する(What Went Wrong in Afghanistan? Understanding Counter-Insurgency Efforts in Tribalized Rural and Muslim Environments)」(Solihull: Helion & Company Limited, 2016).
[11] Ibid.
[12] William F. Owen, “The Operational Level of War Does Not Exist,” Military Operations, (Tel Aviv: The IJ Infinity Group. Summer 2012).
[13] Martin van Creveld, The Transformation of War: The Most Radical Reinterpretation of Armed Conflict Since Clausewitz, (New York, NY: Free Press, 1991).
[14] モハメド・ハフェズ(Mohammed Hafez)著「自爆テロ犯の生成における合理性、文化、構造(Rationality, Culture, and Structure in Making of Suicide Bombers)」(Milton Park: Taylor & Francis, 2006)、マルク・セージマン(Marc Sageman)「テロリズムの誤解(Misunderstanding Terrorism)」(Philadelphia, PA: University of Pennsylvania Press, 2017)。
[15] スタシス・N・カリバス(Stathis N. Kalyvas)著「内戦の論理(The Logic of Civil War)」(New York, NY: Cambridge University Press, 2006). 彼が「表現的暴力(expressive violence)」と呼ぶものの例として、ノガ・タルノポルスキー(Noga Tarnopolsky)著「消えた家族(The Family That Disappeared)」ニューヨーカー(New York, NY: Condé Nast, November 1999)を引用して、「彼らは殺すために殺した――狂った犬が獲物を追いかけるような」という被害者の観察を挙げている。カリバス(Kalyvas)はまた、市民的権威の崩壊が残忍さと野蛮さを助長し、「自立できる無法と暴力の文化を生み出す」ことを論証している。
[16] Ibid.
[17] カーター・マルカシアン(Carter Malkasian)著「勝利の幻想:アンバルの目覚めとイスラム国の台頭(Illusions of Victory: The Anbar Awakening and the Rise of the Islamic State)」(New York, NY: Oxford University Press, 2017)がある。2004年から2006年までアル・アンバルの海兵隊の文民顧問を務めた著者は、こう推測する。
部外者にとって、反乱軍や内戦への介入は学びの場である。国民とともに行動しなければならないため、社会、文化、政治、歴史など、その複雑さについての知識が要求される。イラク、アフガニスタン、ホンジュラスに滞在した経験から、私たちは決して学ぶことができないのだということを痛感している。ある紛争を長く研究すればするほど、自分が知っていることは少なくなっていくのである。
[18] What Went Wrong in Afghanistan?
メティン・グルカン(Metin Gurcan)著「アフガニスタンで何が失敗したのか?:部族化した農村とムスリム環境における対反乱戦の取り組みを理解する(What Went Wrong in Afghanistan? Understanding Counter-Insurgency Efforts in Tribalized Rural and Muslim Environments)」
[19] ベン・コナブル(Ben Connable)著「戦争の霧を受け入れる対反乱における評価と指標(Embracing the Fog of War: Assessment and Metrics in Counterinsurgency)」(Santa Monica, CA: RAND Corporation, 2012)。ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争における米国の集中評価手法を比較し、データ収集と分析の病理を詳細に説明し、改善策を提言している。
[20] (Draft) FMFM-1A Fourth Generation War.
[21] 「アフガニスタンで何が問題だったのか?」で、グルカン(Gurcan)は、デビッド・マクドウォール(David McDowall)著「クルド人の近代史(The Modern History of the Kurds)」(New York, NY: St. Martin’s Press, 1996)を引用している。「部族は血縁関係のイデオロギーと縄張り意識で動いている。後者には確立された村と、国家が受け入れることのできないもっと流動的な考え方がある。しかし、国家と部族が相容れない根本的な理由は、部族の階層性という全理由にある」
[22] ジャン・P・ジェンティレ(Gian P. Gentile)大佐著「戦術の戦略:米陸軍における人口中心の対反乱戦(COIN)(A Strategy of Tactics: Population-centric COIN in the Army)」Parameters, (Carlisle, PA: U.S. Army War College, Autumn 2009).
[23] トム・リックス(Tom Ricks)のスティーブ・インスキープ(Steve Innskeep)によるインタビュー「イラクでの米国の戦略と戦術の噛合いの失敗(U.S. Strategy and Tactics Fail to Mesh in Iraq)」NPR, (August 20060, available at https://www.npr.org)。あるジャーナリストがこの具体例について述べたように、2005年11月にイラクのハディサで警備を強化することは戦術的にすぐに意味をなすが、その成功の代償として24人の民間人が死亡し、イラク人を米国側につかせるという戦略的政策目標が大きく損なわれている。リックス(Ricks)はまた、イラクの米軍上級司令官が、反政府勢力の活動を政治的な観点ではなく、純粋に軍事的な観点で判断していることに疑問を呈している。
反乱では、すべてを政治的に判断すべきなのである。反乱の攻撃で誰も死なないからといって、それが政治的に有効でないとは限らない。ある地域で反政府勢力が活動していることを示すのに成功すれば、また、威嚇のメッセージを送ることができれば、必ずしも死傷者を出す必要はないが、それでも反政府勢力の目標を達成する可能性があるのだ。
しかし、もし暴力がスンニ派とシーア派の間のものだとしたら、これは反乱が米国に対して行動しているということになるのだろうか?イラク政府に対するものなのか?それとも、何か別の理由なのだろうか?
[24] 最も困難な場所 著者は、悪名高いペーチ渓谷に数回派遣された陸軍将校の印象を語っている。
カブール政府から身を隠し、残忍な土地で様々な意味で敵わない米国軍から身を隠している人々は、必ずその場所を見つける…そこに彼らが存在するだけで、軍のリーダー世代にとって非常に大きな意味を持つ場所で、まるで彼らの重要性を拡大し、彼らを捜索し攻撃する軍事手段を使う方向にスケールを傾けられるかのように、彼には見えた。米国の対テロ任務を担う兵士、情報将校、請負業者が、そこで殺すべき人間を探す限り、彼らは探し続けるだろう……。
[25] B. A. フリードマン(B. A. Friedman)著「作戦:作戦術と軍事的分野(On Operations: Operational Art and Military Disciplines)」(Annapolis, MD: Naval Institute Press, 2021). また、「戦争の作戦的レベル(operational level of war)」という用語が、解決するよりも多くの認知的・実際的な問題を引き起こすという点にも同意している。マリヌス(Marinus)「作戦術と機動戦(Operational Art and Maneuver Warfare)」Maneuverist Paper No.14、(米海兵隊機関誌2021年11月号)を参照のこと。
[26] もちろん、「動的な決闘(The Zweikampf Dynamic)」(米海兵隊機関誌2020年10月号)で説明し、「三つ巴の闘いの紹介(Introducing the Dreikampf)」 (米海兵隊機関誌2021年2月号)で再確認しているように、戦術が線形問題を引き起こすことには反対である。
[27] 前掲。フリードマン(Friedman)は、https://www.clausewitz.comのClausewitz.comウェブサイトでアラン・ベイヤーチェン(Alan Beyerchen)の「クラウゼヴィッツ、非線形性、戦争の予測不可能性(Clausewitz, Nonlinearity, and the Unpredictability of War)」International Security (Cambridge, MA: MIT Press, Winter, 1993)に言及している。彼はまた、戦略と戦術の間の作戦レベルの人工的な挿入は、ジャスティン・ケリー(Justin Kelly)とマイク・ブレナン(Mike Brennan)によって観察された2つの間の認知的閉塞を引き起こすという議論を合併する。ウィリアム・F・オーウェン(William F. Owen)著「戦争の作戦レベルは存在しない(The Operational Level of War Does Not Exist)」Military Operations, (Tel Aviv: The IJ Infinity Group, Summer 2012)。「戦略橋:実践理論(The Strategy Bridge: Theory for Practice)」(Oxford: Oxford University Press, 2016)のコリン・S・グレイ(Colin S. Gray)。
[28] Headquarters Marine Corps, MCDP 1, Warfighting, (Washington, DC: 1997).
[29] Ibid.
[30] (ドラフト版) FMFM-1A 第四世代戦争。このマニュアルには、このような状況がどのように起こるかを説明するビネットが含まれており、このような状況を経験したことのある人なら即座にわかることだろう。
[31] Headquarters Marine Corps, MCDP 2, Intelligence, (Washington, DC: 1997).
[32] 喬良・王向水『超限戦』(北京:PLA文芸出版社、1999年2月)。重要なのはその一節である。”これは、現在の世界には兵器になりえないものはないということであり、そのためには、兵器に対する理解があらゆる境界を突破する意識を持たなければならないということである。”
[33] エフライム・カム(Ephraim Kam)著「奇襲攻撃:被害者の視点(Surprise Attack: The Victim’s Perspective)」 (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1988)である。彼はこう書いている。「情報分析官は……敵の意図に関する警告を発することに消極的である。我が国の戦いのドクトリンは、能力と意図の両方に関する質問に対して、どちらかを優先することなく回答することを主張しているため、この問題については沈黙している。MCDP 2「インテリジェンス」も参照されたい。
[34] 「アフガニスタンで何が問題だったのか?」著者は、「現地政治のほとんどのプレイヤーは、経済的にも政治的にも対反乱(COIN)部隊を最もうまく利用できるように、対反乱(COIN)部隊の位置に応じて自分の態勢を整えている」と述べている。彼はこれを「牛の乳搾り(milking the cow)」と呼んでいるが、対反乱(COIN)部隊は牛なのである。素晴らしいフィクションの例として、クリストファー・コレンダ(Christopher Kolenda)著「対反乱戦の課題(The Counterinsurgency Challenge)」を参照されたい。
[35] Ben Connable, et al., Will to Fight: Returning to the Human Fundamentals of War, (Santa Monica, CA: RAND Corporation, 2019); and Wayne Michael Hall, The Power of Will in International Conflict: How to Think Critically in Complex Environments, (Westport, CT: Praeger Security International, 2019).
[36] (Draft) FMFM-1A Fourth Generation War. The full vignette well demonstrates this awareness.
(案)FMFM-1A 第4世代戦争。フルビネットはこの認識をよく示している。